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2005/04/06のBlog
[ 13:29 ] [ 由良川 上林川 ]
ふじもと様
こちらは何時ものカード型SONY・CYBER・SHOTカメラ、フリーハンド最大ズームの写真です。5Mの解像度がありますが、1M(1280x960)で撮っています。
原図トリミングのみの画像です。5Mで撮ればもっと良い画像が得られるのかも?
こちらは何時ものカード型SONY・CYBER・SHOTカメラ、フリーハンド最大ズームの写真です。5Mの解像度がありますが、1M(1280x960)で撮っています。
原図トリミングのみの画像です。5Mで撮ればもっと良い画像が得られるのかも?
フクヤカメラの梅原店主は、自然はミクロの分子で出来ているので、デジタルの解像度(ドット数)のあるデジカメよりも、ミクロ粒子で再現される銀塩写真の方が勝れている。拡大に有利とのことです。
ところが昨日のように普通の焼き付け写真でも、スキャナーでデジタル化(600ドット:3200x2400など)すると、拡大には限界があります。
ところが昨日のように普通の焼き付け写真でも、スキャナーでデジタル化(600ドット:3200x2400など)すると、拡大には限界があります。
写真下手なのでバカチョン(フルオート)の撮り方しか出来ず、焦点深度もなにもない写真ですが、どうしたら上手に撮れるのかご指導ください。
この写真だけ少し撮影サイズより拡大しています。残りは撮影サイズ・トリミング
この写真だけ少し撮影サイズより拡大しています。残りは撮影サイズ・トリミング
昔LPレコード全盛時代に、ダイアモンドの針だとか、コンデンサーアンプとか、音キチがあれこれ云い、デジタル音が出現すると、本当の楽器の生の音は、デジタルで再現できない、アナログのレコード盤の方が勝れている。デジタル音は、音キチには欠陥品だの意見がありました。CD全盛時代の今日、この意見は全く聞かなくなりました?。
2005/04/05のBlog
[ 17:41 ] [ 由良川 上林川 ]
天気が良かったので友人をさそって、由良川に遊ぶ水鳥の写真を撮りに行った。友人は右手指先からブドウ状球菌が入ったということで、手が腫れ手術をされていた。まだ包帯がとれず右手の手指が使えない状況で不自由そうだ。
2005/04/04のBlog
[ 21:19 ] [ 由良川 上林川 ]
2005/03/30のBlog
2005/03/28のBlog
[ 13:08 ] [ 由良川 上林川 ]
[関連したBlog]
前回「近藤翁顕彰碑」について、綾部史談会の山崎 巌会長に問い合わせると記述したが、電話したがお留守であった。
丹の国綾部 第4話 九鬼氏と綾部の人々より
http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/kaiki/kuki.htm
に九鬼藩士で由良川改修に功績のあった近藤代官(近藤勝由)のことが書かれているので紹介する。
前回「近藤翁顕彰碑」について、綾部史談会の山崎 巌会長に問い合わせると記述したが、電話したがお留守であった。
丹の国綾部 第4話 九鬼氏と綾部の人々より
http://www5.nkansai.ne.jp/users/nbcayabe/kaiki/kuki.htm
に九鬼藩士で由良川改修に功績のあった近藤代官(近藤勝由)のことが書かれているので紹介する。
綾部藩と由良川
九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
九鬼氏の治世をしのぶとき必ず思い出されるのは、丹波にとって母なる大河由良川である。山間の地に 塞せしめられた日本水軍の総帥九鬼氏の郷愁をなぐさめた由良川は、古来郷土の文化、産業、経済、交通その他あらゆる社会事象の母胎をなして来た。明治までの日本海表日本への物質の運搬はほとんど、大島福知山由良湊を経て通船で行われた。川筋の村々には船舶があり、庄屋は船問屋役をかねて大いに繁盛した。
”位田、栗村、大島、高津、人の情けのない所”と、いまだに人々の口にされるのは、川筋の村々にとって度重なる洪水との戦いと、通船による商いの活発化によって、綾部人としてはどちらかといえば、きびしい合理性を身につけていたためと推察される。
丹波からの下り船は、茶、木綿、うるし実、木材、竹、桐油美、木炭、楮三つ又、こんにゃく、柿、大豆等であり、上り船は酒、油かす、干いわし、塩等であった。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。
由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
由良川水路が商業交通路として重要であったことは、京都、長柄屋治兵衛が宝暦九年(1759)に由良川と保津川とを運河で結んで京阪神と北国の物産とを直結しようと計ったことでもわかる。
由良川の水を治めて五穀豊穣を願う心は、古来から綾部領主の願う処で、並松の景勝を作る綾部井堰、義人吉次郎の物語も悲しい位田井堰は、両丹最大の灌漑施設で、その建設年代も定かでない。九鬼隆季公が寛永十年(1633)入部された時の陣屋古図にはすでに井堰用水路が描かれており、それ以前の記録はないが、井倉八幡宮の社伝には、平氏の施工と伝えられており、福原新都の大工事をなしとげた平氏の実力からして、正歴寺熊野新宮社ゆかりの重盛公がなされたとしても、少しも不思議ではない。
領民の幸せを願う九鬼氏の心は、この井堰の改修にはたえず力をそそぎ、井堰中興の祖と仰がれる近藤代官(勝由)の名と共に綾部人にとって忘れてはならないものである。
”綾部川の水のひびきの中にきく
人の心の高きしらべを” 吉井 勇
古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。
”綾部川の水のひびきの中にきく
人の心の高きしらべを” 吉井 勇
古代より悠々と流れ、大地を潤し、時には氾濫して人々を恐れせしめ、また舟を通わせて他国の物産と情報を伝え、丹波ラインに並松に私達の心を和ませてくれる由良川は、綾部のことを次の様に語ってくれる。
「出雲文化の土壌の上に大陸の文明が融和して高度な民力を養い、強力に流れ入る平安文化は更に伝統に磨きをかけ、足利尊氏を生んだ誇り高き里は、平和な二百三十年の九鬼氏の治世を経て、初めて郡是と大本による綾部ナショナリズムの第一の開花を見るのである」と。
2005/03/27のBlog
[ 08:28 ] [ 由良川 上林川 ]
綾部市民センタ-の裏側に一郭を設けて二つのモニュメントが立っている。
記念塔の建設
綾部井堰水利組合が土地改良法の改正で解散、綾部井堰土地改良区を設立、改良事業誌を編纂、刊行するに至った。それ等を記念し記念塔を建設
晴れわたる空を まみずの 尊さを想う
近藤翁顕彰碑 昭和10年建立
和知川(由良川)の改良に貢献した人か?綾部史談会の山崎巌先生に伺っておく。
記念塔の建設
綾部井堰水利組合が土地改良法の改正で解散、綾部井堰土地改良区を設立、改良事業誌を編纂、刊行するに至った。それ等を記念し記念塔を建設
晴れわたる空を まみずの 尊さを想う
近藤翁顕彰碑 昭和10年建立
和知川(由良川)の改良に貢献した人か?綾部史談会の山崎巌先生に伺っておく。
2005/03/23のBlog
[ 16:56 ] [ 由良川 上林川 ]
2005/03/22のBlog
[ 20:58 ] [ 由良川 上林川 ]
昔からある綾部大橋。西行きの一方通行。大型車も通れない。橋の出入り口に高さ制限の鉄梁が渡されており、選挙カ-が上に付けた候補者の看板を引っかけて落とし、
選挙運動初日にして落選のゲンの悪さを感じる所。
東側が少し高いのでぎりぎり入ったワゴン車が西側で出られず。タイヤのエアを抜いて脱出の光景も見られる。
選挙運動初日にして落選のゲンの悪さを感じる所。
東側が少し高いのでぎりぎり入ったワゴン車が西側で出られず。タイヤのエアを抜いて脱出の光景も見られる。
2005/03/13のBlog
[ 09:23 ] [ 由良川 上林川 ]
2005/03/11のBlog