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2006/01/26のBlog
[ 11:07 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
表彰状をわたす綾部市スキ-協会の木下会長
木下会長の挨拶(要旨)
毎年恒例の志賀高原スキ-教室も25回を迎えました。今回参加いただきました皆様を心から歓迎いたします。・・思いかえせば最盛期には、1シ-ズンに1、2、3月の三回バスを出し、また同時に2台のバスを出して補助椅子を満席にしても参加者を断らざるを得ない時もありました。近年は様変わりの状況となり、今回も40人乗りの大型バスに24名の参加で、現地参加2名を合わせてのツアです。・・
今回一つの節目として、この行事を最初から今日まで世話をいただいて来ました、久木さんに記念表彰を行わせていただきます。・・
ここで悲しい報告ですが、今回をもってこの志賀高原スキ-教室の開催を再検討せざるを得ない状況となりました。・・(文責なべちゃん)
木下会長の挨拶(要旨)
毎年恒例の志賀高原スキ-教室も25回を迎えました。今回参加いただきました皆様を心から歓迎いたします。・・思いかえせば最盛期には、1シ-ズンに1、2、3月の三回バスを出し、また同時に2台のバスを出して補助椅子を満席にしても参加者を断らざるを得ない時もありました。近年は様変わりの状況となり、今回も40人乗りの大型バスに24名の参加で、現地参加2名を合わせてのツアです。・・
今回一つの節目として、この行事を最初から今日まで世話をいただいて来ました、久木さんに記念表彰を行わせていただきます。・・
ここで悲しい報告ですが、今回をもってこの志賀高原スキ-教室の開催を再検討せざるを得ない状況となりました。・・(文責なべちゃん)
2006/01/25のBlog
[ 19:47 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
[ 19:33 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
[ 19:20 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
[ 09:00 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
子供の頃は雪が多く、神宮寺の一番奥にある山の神に住んでいましたので、友達に教えられて、青竹を火であぶり先を曲げ、箱に打ちつけて、はこぞりを作り、近所の子供と遊びました。
富山の不二越に入社して、先輩に教えられ総曲輪のスポ-ツ店に行き、みずなら材の金田のスキ-とダ-クホ-スの靴を買いました。全部で給料1ヶ月分より高かったと思います。スキ-は金属製のエッヂが付いていましたが、よく折れて外れ、行く度に修理をしました。バッケンは、ト-ピ-スだけに、一応セ-フティの付いた、ガンダハ-式のものでした。靴は馬革製のすごいもので大奮発しました。
その年は、糸魚川の魚津スキ-場、大川寺スキ-場、宇奈月スキ-場などに行きました。我流で滑っていましたので、あまり上手くなれませんでした。立山の春山スキ-に職場の先輩達と行きました。美女平から雪上車(ウィ-ゼル)に先輩達はロ-プで引っ張って貰いましたが、私は不慣れなので上に乗りました。
弥陀ケ原ホテルは完全に雪の下でした。雪のトンネルを中にはいると、スト-ブで山男が目刺しを焼いていました。思わず唾が出ました。以来私も山小屋で目刺しを焼くのが夢になりましたが、未だ果たせません。
未明に一人起き出し、星の残っているホテルの前で、山回りクリスチャニアの練習をしました。完全に凍れている雪面なので割合簡単に成功しました。この頃は、猪谷千春というオリンピック選手が活躍し、ジャンプ・クリスチャニァという回転技術が脚光を浴びていました。私も飛んだり跳ねたりしてみましたが、基礎が出来てなく、とうとう出来ず終いでした。美女平までの長いコ-スの山スキ-を楽しみました。
翌シ-ズンの11月23日の勤労感謝の日の連休で、立山に初滑りに行くこととなり、弥陀ヶ原からは歩いて、立山稜線の一の越山荘で宿泊しました。まだ滑るだけの雪は積もっていませんでした。一夜明けると寝ている間に降雪があり、美女平まで滑ってスキ-を楽しみました。
綾部に帰ってからも、ずっと家族で滑っていましたが、地元のスキ-同好者の集まりである、四峰スキ-クラブに入会しました。スキ-協会の志賀高原ツア-にも、子供のつきそいを口実にして、若い方々の中にまじって参加し、スキ-・ナイトの懇親会で乾杯の役をやるのが常でした。
若い人たちとは到底、滑降タイムが合いませんので、I君と綾部クラブ対抗戦などの選手権に出て、2人だけのタイムで、百分の一秒差の大回転滑降を争うのが楽しみです。
富山の不二越に入社して、先輩に教えられ総曲輪のスポ-ツ店に行き、みずなら材の金田のスキ-とダ-クホ-スの靴を買いました。全部で給料1ヶ月分より高かったと思います。スキ-は金属製のエッヂが付いていましたが、よく折れて外れ、行く度に修理をしました。バッケンは、ト-ピ-スだけに、一応セ-フティの付いた、ガンダハ-式のものでした。靴は馬革製のすごいもので大奮発しました。
その年は、糸魚川の魚津スキ-場、大川寺スキ-場、宇奈月スキ-場などに行きました。我流で滑っていましたので、あまり上手くなれませんでした。立山の春山スキ-に職場の先輩達と行きました。美女平から雪上車(ウィ-ゼル)に先輩達はロ-プで引っ張って貰いましたが、私は不慣れなので上に乗りました。
弥陀ケ原ホテルは完全に雪の下でした。雪のトンネルを中にはいると、スト-ブで山男が目刺しを焼いていました。思わず唾が出ました。以来私も山小屋で目刺しを焼くのが夢になりましたが、未だ果たせません。
未明に一人起き出し、星の残っているホテルの前で、山回りクリスチャニアの練習をしました。完全に凍れている雪面なので割合簡単に成功しました。この頃は、猪谷千春というオリンピック選手が活躍し、ジャンプ・クリスチャニァという回転技術が脚光を浴びていました。私も飛んだり跳ねたりしてみましたが、基礎が出来てなく、とうとう出来ず終いでした。美女平までの長いコ-スの山スキ-を楽しみました。
翌シ-ズンの11月23日の勤労感謝の日の連休で、立山に初滑りに行くこととなり、弥陀ヶ原からは歩いて、立山稜線の一の越山荘で宿泊しました。まだ滑るだけの雪は積もっていませんでした。一夜明けると寝ている間に降雪があり、美女平まで滑ってスキ-を楽しみました。
綾部に帰ってからも、ずっと家族で滑っていましたが、地元のスキ-同好者の集まりである、四峰スキ-クラブに入会しました。スキ-協会の志賀高原ツア-にも、子供のつきそいを口実にして、若い方々の中にまじって参加し、スキ-・ナイトの懇親会で乾杯の役をやるのが常でした。
若い人たちとは到底、滑降タイムが合いませんので、I君と綾部クラブ対抗戦などの選手権に出て、2人だけのタイムで、百分の一秒差の大回転滑降を争うのが楽しみです。
追記:
・立山スキ-は、11月に入ると勤労感謝の一週間前にも有休を取って行きました。初回は雪上車に乗りましたが、2回目からはウィ-ゼル(雪上車)にロ-プで引っ張ってもらいました。弥陀ヶ原から歩いて一の越に登り宿泊。翌朝ケ-ブル終点の美女平までの凄い長距離を滑りました。天狗の麓の雪だまりに突っ込んで埋まり、スノ-パウダ-が顔面のみならず口鼻に入り、さらに首元からお腹まで入りこんで冷たい思いをしたり、ずっと全コ-スが片斜面なのでボ-ゲンの片足だけが痛くなったりで滑りました。
・後年に綾部から2回、春山スキ-に行きましたが最早バス道が開通した後は、弥陀ヶ原までしか滑られず。残りのル-トは滑降禁止になっていました。一の越予約でしたが吹雪で登れず、室堂小屋で宿泊し翌朝は時間をかけて天狗山にスキ-を担いで上がり、滑りはあっという間のほんの一瞬でした。ヘリコプタ-が飛来し、雷鳥沢に下りていました。何か事故があったように見えました。
・不二越に同期入社で同じ職場にS君がおられました。スキ-板は世界一のものを持つのだと言って、外国製(オ-ストリア)の最高級のスキ-(クナイスル)を買われました。当時はメタルスキ-、グラスファイバ-スキ-、ハニカムスキ-などが発売された時代で非常に研究熱心でした。直カリ(直滑降)専門の猛者志望でしたが、足を骨折され富山県立病院に入院されました。
職場で見舞いに行くこととなり、骨折の特効薬だという「トンソク」なるものを買いに寄りました。「トンソク」って何か知らなかった私に、蹴爪の生えた「豚足」だと、手で示しながら先輩達が「おどろおどろしく」説明してくれました。それでも何で「豚の足」を骨折の見舞いに持って行くのか「ギョット」した感じでした。実物を見て分かりましたが、とても食べる勇気はありません。
・婚約中の家内と芦峅寺にスキ-に行きました。ゲレンデが一面しかない状態で、殆ど私達二人だけでした。滑っていると地元の方か、スキ-の上手な体格の良い人が話しかけてこられ、その方に大回転クリスチャニアを、かなりの時間、二人に手ほどきしていただきました。お名前を聞くと佐伯さんと言われていました。後で気がついたのですが、南極第一次越冬隊メンバ-だった佐伯富雄さんだった様に思います。大変な方にスキ-を教わったようです。
・立山スキ-は、11月に入ると勤労感謝の一週間前にも有休を取って行きました。初回は雪上車に乗りましたが、2回目からはウィ-ゼル(雪上車)にロ-プで引っ張ってもらいました。弥陀ヶ原から歩いて一の越に登り宿泊。翌朝ケ-ブル終点の美女平までの凄い長距離を滑りました。天狗の麓の雪だまりに突っ込んで埋まり、スノ-パウダ-が顔面のみならず口鼻に入り、さらに首元からお腹まで入りこんで冷たい思いをしたり、ずっと全コ-スが片斜面なのでボ-ゲンの片足だけが痛くなったりで滑りました。
・後年に綾部から2回、春山スキ-に行きましたが最早バス道が開通した後は、弥陀ヶ原までしか滑られず。残りのル-トは滑降禁止になっていました。一の越予約でしたが吹雪で登れず、室堂小屋で宿泊し翌朝は時間をかけて天狗山にスキ-を担いで上がり、滑りはあっという間のほんの一瞬でした。ヘリコプタ-が飛来し、雷鳥沢に下りていました。何か事故があったように見えました。
・不二越に同期入社で同じ職場にS君がおられました。スキ-板は世界一のものを持つのだと言って、外国製(オ-ストリア)の最高級のスキ-(クナイスル)を買われました。当時はメタルスキ-、グラスファイバ-スキ-、ハニカムスキ-などが発売された時代で非常に研究熱心でした。直カリ(直滑降)専門の猛者志望でしたが、足を骨折され富山県立病院に入院されました。
職場で見舞いに行くこととなり、骨折の特効薬だという「トンソク」なるものを買いに寄りました。「トンソク」って何か知らなかった私に、蹴爪の生えた「豚足」だと、手で示しながら先輩達が「おどろおどろしく」説明してくれました。それでも何で「豚の足」を骨折の見舞いに持って行くのか「ギョット」した感じでした。実物を見て分かりましたが、とても食べる勇気はありません。
・婚約中の家内と芦峅寺にスキ-に行きました。ゲレンデが一面しかない状態で、殆ど私達二人だけでした。滑っていると地元の方か、スキ-の上手な体格の良い人が話しかけてこられ、その方に大回転クリスチャニアを、かなりの時間、二人に手ほどきしていただきました。お名前を聞くと佐伯さんと言われていました。後で気がついたのですが、南極第一次越冬隊メンバ-だった佐伯富雄さんだった様に思います。大変な方にスキ-を教わったようです。
2006/01/24のBlog
[ 11:27 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
「恐いのが面白い」がモット-の私ですが、3度死にそうになったスキ-・ツアの話です。
5時に会社を終え、スキ-用具を抱えて、リュックを背に会社の先輩方と富山駅に駆けつけました。
列車は超満員でデッキの入り口で支えてしまい、スキ-を抱えて、もたもたしているうちに列車が動き出しました。
がたんと揺れたとたん、はじき出され、気が付いたときは、プラットホ-ムを外れたばかりの地面に落ちていました。
列車は急ブレ-キをかけて止まり、慌てて乗り込みました。デッキがやけに高かったのを覚えていますが、今度は中に入れてくれました。
その日は、白馬山麓の細野部落の民宿に泊まり、翌朝早く、白馬兎平に直行のゴンドラ・リフトに並びました。快晴でした。
うさぎだいらで、気持ちよく滑っていると、突然強風が吹き出しました。山おろしの突風でした。
仲間ともはぐれ、立っているのがやっとの状況で、積雪をどんどん巻き上げる、大変なブリザ-ドでした。
雪の粒が飛んできて顔に当たり、痛いのと、寒いのとで、顔が凍り付きました。
上へ歩こうにも、休み休み、風の具合を見ては、2歩前進して1歩後退する状況で、やっとモ-タのあるロ-プ・リフト小屋にたどり着きました。一坪ほどの小屋は超満員で、何とか風をしのげました。
小屋から見ると、顔につららをつけた人が何人も倒れていました。
そのうちに誰かロ-プを輪にして、中に人を収容しながら、集団の力で上がってくるグル-プが活躍し始め、皆が救われたようでした。
風が止み少し滑りましたが、下りることになり、リ-ゼン・スラロ-ムという、国体滑降コ-ス(本年のオリンピック・コ-スにもなった)を滑り始めました。この冬は積雪量が少なく、例年よりも幅の狭い大変な難コ-スでした。
途中転倒してしまい、アングリ-メンというスキ-バッケンが外れ、スキ-を外すこともできず、ウェアもビニ-ル系の滑る素材のもので、カチカチの氷雪の急斜面を止める術がなく、ずるずると急斜面を落ちる一方でした。
巻き込まれるのを恐れて、誰も眺めるだけで止めてくれず、日も暮れ、暗くなってきた中であせりました。
結局手袋を脱いで素手を氷雪に当て、やっと止まることが出来ました。
ずいぶん長い時間を斜面を止まっては、ずるずると落ちていたと思います。
この日、白馬稜線直下の第3ケルンでは、6名の犠牲者が出ました。
5時に会社を終え、スキ-用具を抱えて、リュックを背に会社の先輩方と富山駅に駆けつけました。
列車は超満員でデッキの入り口で支えてしまい、スキ-を抱えて、もたもたしているうちに列車が動き出しました。
がたんと揺れたとたん、はじき出され、気が付いたときは、プラットホ-ムを外れたばかりの地面に落ちていました。
列車は急ブレ-キをかけて止まり、慌てて乗り込みました。デッキがやけに高かったのを覚えていますが、今度は中に入れてくれました。
その日は、白馬山麓の細野部落の民宿に泊まり、翌朝早く、白馬兎平に直行のゴンドラ・リフトに並びました。快晴でした。
うさぎだいらで、気持ちよく滑っていると、突然強風が吹き出しました。山おろしの突風でした。
仲間ともはぐれ、立っているのがやっとの状況で、積雪をどんどん巻き上げる、大変なブリザ-ドでした。
雪の粒が飛んできて顔に当たり、痛いのと、寒いのとで、顔が凍り付きました。
上へ歩こうにも、休み休み、風の具合を見ては、2歩前進して1歩後退する状況で、やっとモ-タのあるロ-プ・リフト小屋にたどり着きました。一坪ほどの小屋は超満員で、何とか風をしのげました。
小屋から見ると、顔につららをつけた人が何人も倒れていました。
そのうちに誰かロ-プを輪にして、中に人を収容しながら、集団の力で上がってくるグル-プが活躍し始め、皆が救われたようでした。
風が止み少し滑りましたが、下りることになり、リ-ゼン・スラロ-ムという、国体滑降コ-ス(本年のオリンピック・コ-スにもなった)を滑り始めました。この冬は積雪量が少なく、例年よりも幅の狭い大変な難コ-スでした。
途中転倒してしまい、アングリ-メンというスキ-バッケンが外れ、スキ-を外すこともできず、ウェアもビニ-ル系の滑る素材のもので、カチカチの氷雪の急斜面を止める術がなく、ずるずると急斜面を落ちる一方でした。
巻き込まれるのを恐れて、誰も眺めるだけで止めてくれず、日も暮れ、暗くなってきた中であせりました。
結局手袋を脱いで素手を氷雪に当て、やっと止まることが出来ました。
ずいぶん長い時間を斜面を止まっては、ずるずると落ちていたと思います。
この日、白馬稜線直下の第3ケルンでは、6名の犠牲者が出ました。
補筆:
・当時の国鉄の北陸本線は、ディ-ゼル機関車で、車輌のデッキには戸がついてなく、のり口に段が付いていて、フラットデッキになり、車内にはいる処に戸があったと思う。
プラットフォ-ムを外れたばかりの所で、スキ-を抱え、リュックを背負ったまま後ろ向きに落ちたので、怪我はなかった。
しかし線路脇の構造物、土手、川などのあるところ、もう少し列車の速度が上がっていたらと思うとぞっとする。
見送り確認の駅員(助役)が、プラットホ-ムの端を目がけてこちらに走ってくるのを目にした。落ちるのを見たとして機関車の機関手にどのように報せたのか、機関手が見つけてくれたのか、置いて行かれずに、ともかく幸運だった。
置いて行かれたら後続の列車に乗り、糸魚川で乗り換えて白馬山麓まで、1人で行けなかったと思う。
行き先は、不二越社員寮に私と同在で、同じ職場の先輩任せであったので宿泊先も知らなかった。
・この日の白馬山麓の死亡事故は、新聞のトップニュ-スとして大きく報道された。関西のスキ-場でもかなり激しい「山おろし」を経験するが、海陸の気温差で発生するのだと思う。白馬兎平(ぴょんぴょんたいら)は、高所にあるので体を屈めて蹲るのがやっとで非常に激しかった。じっとしていたのでは死んでしまうので、南極大陸日本基地のブリザ-ドの話しを想像しながら、じりじりと登り始めかなり斜行した。
・リ-ゼン・スラロ-ム(かみそりの刃の滑降斜面)は、気温が下がり青氷と化し、ボ-ゲンで下りる幅もなく、急傾斜で、スキ-エッジも効かず、横滑りで下りていて転倒しました。転倒の最初は、急傾斜面で頭が下、足が上の最悪の状態で、何とか頭を斜面の上にしましたが、止まりませんでした。ストックの雪輪付近を握って雪に突き立てましたが、全く突き刺さりませんでした。手袋を脱いで素手で雪面に当て、止まれたのは、少し傾斜がゆるんだところに入ったからだと思います。暗くなっていて周りの状況も判らず恐い思いをしました。
・「九死に一生を得る」と云いますが、冒険小説のヒ-ロ-/ヒロインは当たり前のように乗り越えています。
三死に一生の恐い思いをしましたが、怪我もなくすんで幸運でした。
・山では、昼食時に一緒だった福井工大生たちが、その日に剣御前の小屋を前にガスにまかれ死亡した。
雪彦山鎖場を下りた翌日に、鎖が切れて転落死亡した。など危機一髪の状況が報道され、びっくりします。
ユニークで孤独な作家を目指す赤毛のMOUSOU奮闘記:亞來拓也様
「事実は、小説よりも奇なり」にトラック・バックで協賛投稿しました私の投稿と補筆でした。ご笑読ください。
・当時の国鉄の北陸本線は、ディ-ゼル機関車で、車輌のデッキには戸がついてなく、のり口に段が付いていて、フラットデッキになり、車内にはいる処に戸があったと思う。
プラットフォ-ムを外れたばかりの所で、スキ-を抱え、リュックを背負ったまま後ろ向きに落ちたので、怪我はなかった。
しかし線路脇の構造物、土手、川などのあるところ、もう少し列車の速度が上がっていたらと思うとぞっとする。
見送り確認の駅員(助役)が、プラットホ-ムの端を目がけてこちらに走ってくるのを目にした。落ちるのを見たとして機関車の機関手にどのように報せたのか、機関手が見つけてくれたのか、置いて行かれずに、ともかく幸運だった。
置いて行かれたら後続の列車に乗り、糸魚川で乗り換えて白馬山麓まで、1人で行けなかったと思う。
行き先は、不二越社員寮に私と同在で、同じ職場の先輩任せであったので宿泊先も知らなかった。
・この日の白馬山麓の死亡事故は、新聞のトップニュ-スとして大きく報道された。関西のスキ-場でもかなり激しい「山おろし」を経験するが、海陸の気温差で発生するのだと思う。白馬兎平(ぴょんぴょんたいら)は、高所にあるので体を屈めて蹲るのがやっとで非常に激しかった。じっとしていたのでは死んでしまうので、南極大陸日本基地のブリザ-ドの話しを想像しながら、じりじりと登り始めかなり斜行した。
・リ-ゼン・スラロ-ム(かみそりの刃の滑降斜面)は、気温が下がり青氷と化し、ボ-ゲンで下りる幅もなく、急傾斜で、スキ-エッジも効かず、横滑りで下りていて転倒しました。転倒の最初は、急傾斜面で頭が下、足が上の最悪の状態で、何とか頭を斜面の上にしましたが、止まりませんでした。ストックの雪輪付近を握って雪に突き立てましたが、全く突き刺さりませんでした。手袋を脱いで素手で雪面に当て、止まれたのは、少し傾斜がゆるんだところに入ったからだと思います。暗くなっていて周りの状況も判らず恐い思いをしました。
・「九死に一生を得る」と云いますが、冒険小説のヒ-ロ-/ヒロインは当たり前のように乗り越えています。
三死に一生の恐い思いをしましたが、怪我もなくすんで幸運でした。
・山では、昼食時に一緒だった福井工大生たちが、その日に剣御前の小屋を前にガスにまかれ死亡した。
雪彦山鎖場を下りた翌日に、鎖が切れて転落死亡した。など危機一髪の状況が報道され、びっくりします。
ユニークで孤独な作家を目指す赤毛のMOUSOU奮闘記:亞來拓也様
「事実は、小説よりも奇なり」にトラック・バックで協賛投稿しました私の投稿と補筆でした。ご笑読ください。
[ 10:53 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
[ 09:17 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
[ 09:16 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
☆☆☆:05様からのコメント
>雪山だらけですね 笑
>是非、食べ物も
私からのResです。
そうなんです。「雪気」ばっかしじゃつまりませんね。お腹がへると戦は出来ないです。「食い気」も満足させましょう。
ついでに暖かい団らんの輪も、面白可笑しいスキ-よもやま話も・・乞うご期待!
>雪山だらけですね 笑
>是非、食べ物も
私からのResです。
そうなんです。「雪気」ばっかしじゃつまりませんね。お腹がへると戦は出来ないです。「食い気」も満足させましょう。
ついでに暖かい団らんの輪も、面白可笑しいスキ-よもやま話も・・乞うご期待!