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[ 09:03 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
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2006/01/27のBlog
[ 09:22 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
帰り支度して昼食をホテル・タキモトの談話室で食べる。カレ-ライスにサラダなどついて1000円。三日間使ったリフトのセンサ-をホテルのフロントに返すと、1000円戻ってくる。それで間に合った。薪を燃やす大きな囲炉裏があり、煙のラッパ型煙突が付いた豪華なフロント前談話室で出発までしばしの間、歓談しながら待機する。
往復に使った京都交通の大型観光バス。
東舞鶴、西舞鶴の駅前で参加者を下ろし、綾部振興局前に23時に帰着した。
長い連載ブログを見ていただき有り難うございました。
ジャンル{スキ-」から見ていただくと連続しています。
東舞鶴、西舞鶴の駅前で参加者を下ろし、綾部振興局前に23時に帰着した。
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[ 09:20 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
富山から綾部に帰り大本弥勒殿で結婚式をあげました。新婚旅行は志賀高原熊ノ湯に行きました。綾部駅の近くにある料理旅館で披露宴をして、そこでスキ-の格好に着替え、披露宴のお客さん方(Y君、I君の父親も同席)の見送りをプラットホ-ムで受けながら、深夜特急「日本海」に乗りました。当時はスキ-宅急便などなく全部自分で担いでのスキ-でした。新婚旅行でスキ-に行くこと自体がまだ珍しい時代でした。熊ノ湯の硫黄温泉に入り長女を授かりました。志賀高原では横手山山頂に登りスキ-を堪能しました。
そうして所帯を持つと間もなく隣の会社のY君(現スキ-協会副会長)に誘われて四峰スキ-クラブに入りました。今の(財)綾部市体育協会の前身時代で由良会長から久下会長に交代された時に監事から理事になり、スキ-協会の木下会長とは同期の桜でした。私はテニス協会で木下会長と同様、体協の理事と単位協会会長の二足のわらじを履きました。実際はもう一足、四峰スキ-クラブの木下会長に対して、私も綾部ロ-ンテニスクラブ会長の三足を履いていました。
その当時の体協理事の任務に市民スポ-ツ大会の分担があり、私は空手道の理事と2人で綾部市民スキ-教室、綾部市民スキ-大会の2行事の担当理事になりました。
行事の当日は現地(神鍋万場、名色、山の宮、大岡山スキ-場など)に行き、市民の登録受け付け、コ-ス作り、ゴ-ル・タイムの張り出し、表彰などを手伝いました。空手道の理事は万場のスキ-リフトが初乗りで、見事乗り始めで乗り損ね落ちられ、後は歩いて移動され、次の行事以降はリタイヤでした。
スキ-は我が家の家族スポ-ツでしたので、子供達も連れて行き保育園児の女子も小学低学年組で大会に出していました。私の方は、現役の若手選手とはタイムが合いませんので、一歳違いのI君と大回転滑降で百分の1秒を争って楽しんでいました。
クラブ対抗スキ-大会も盛大に行われ、N社チ-ムなど前日から泊まり込みで参加の活況でした。このクラブ対抗戦は、殆どテニス室内選手権大会とバッティングするので、参加は3年に一度位だったと思います。各チ-ムの上位入賞者得点で順位が決まるので、I君と私の参加で四峰クラブが優勝と云うこともありました。
ジュニア・スキ-教室が企画され、保護者会の初会合にも参加させていただきました。さらにジュニアスキ-教室にも子供と一緒に(大屋・奥鉢スキ-場など)参加しました。テニス協会でもジュニアテニス教室を始めるに当たり、この時のスキ-協会の保護者会の対応をつぶさに見せていただいた事が大きな参考になり、感謝しています。
京都府政が革新の蜷川知事から林田知事に替わり、高校学制の京都方式四原則が廃止され、綾高にも体育系の三類が創設されました。当時のPTA会長として綾中をはじめ保護者に説明の一役をかいましたが、翌年、綾高の修学旅行がそれまでの東京、九州旅行から、スキ-の体験学習旅行に替わりました。初めての試みであり保護者に説明するために、綾部市スキ-協会の木下会長、久木理事長に来ていただき学年保護者会を持ちました。以後修学旅行はスキ-の体験学習となり、引率の先生方も生徒も楽になったと聞いています。
初めてのスキ-体験学習は福井県のスキ-場で行われましたが、参加した娘は、インストラクタ-(女性))よりも自分の方がはるかにスキ-が上手であった由、斜面でスキ-の向きを変えるにも自分は「ホィ」なのに、指導員は「モタモタ」覚束なかったと自慢していました。この娘は四都市スキ-大会で十位入賞しました。会社の女子社員も名選手でしたが、女性選手は子供が出来ると選手生命が止まり、また雪がないと四都市スキ-大会は地元開催厳守ですので、数年続けて流れてしまい、折角練習上達しても晴れの舞台が中止なので、私の青春が飛んでいくと嘆いていました。
志賀高原スキ-教室には家族連れで何度か参加させていただき、何時もスキ-ナイトでは乾杯役を仰せつかっていました。昨年に続いての参加となりました今回は、25回目の記念ということで参加できたことを大変嬉しく思います。
綾部市スキ-協会の伝統ある行事が、スキ-クラブ人口の低迷でジュニア教室を除き少なくなっています。この志賀高原スキ-ツアの運営も大変とのことですが、出来得る限りの工夫をこらして頂きますよう、スキ-協会の益々のご発展を祈っております。
そうして所帯を持つと間もなく隣の会社のY君(現スキ-協会副会長)に誘われて四峰スキ-クラブに入りました。今の(財)綾部市体育協会の前身時代で由良会長から久下会長に交代された時に監事から理事になり、スキ-協会の木下会長とは同期の桜でした。私はテニス協会で木下会長と同様、体協の理事と単位協会会長の二足のわらじを履きました。実際はもう一足、四峰スキ-クラブの木下会長に対して、私も綾部ロ-ンテニスクラブ会長の三足を履いていました。
その当時の体協理事の任務に市民スポ-ツ大会の分担があり、私は空手道の理事と2人で綾部市民スキ-教室、綾部市民スキ-大会の2行事の担当理事になりました。
行事の当日は現地(神鍋万場、名色、山の宮、大岡山スキ-場など)に行き、市民の登録受け付け、コ-ス作り、ゴ-ル・タイムの張り出し、表彰などを手伝いました。空手道の理事は万場のスキ-リフトが初乗りで、見事乗り始めで乗り損ね落ちられ、後は歩いて移動され、次の行事以降はリタイヤでした。
スキ-は我が家の家族スポ-ツでしたので、子供達も連れて行き保育園児の女子も小学低学年組で大会に出していました。私の方は、現役の若手選手とはタイムが合いませんので、一歳違いのI君と大回転滑降で百分の1秒を争って楽しんでいました。
クラブ対抗スキ-大会も盛大に行われ、N社チ-ムなど前日から泊まり込みで参加の活況でした。このクラブ対抗戦は、殆どテニス室内選手権大会とバッティングするので、参加は3年に一度位だったと思います。各チ-ムの上位入賞者得点で順位が決まるので、I君と私の参加で四峰クラブが優勝と云うこともありました。
ジュニア・スキ-教室が企画され、保護者会の初会合にも参加させていただきました。さらにジュニアスキ-教室にも子供と一緒に(大屋・奥鉢スキ-場など)参加しました。テニス協会でもジュニアテニス教室を始めるに当たり、この時のスキ-協会の保護者会の対応をつぶさに見せていただいた事が大きな参考になり、感謝しています。
京都府政が革新の蜷川知事から林田知事に替わり、高校学制の京都方式四原則が廃止され、綾高にも体育系の三類が創設されました。当時のPTA会長として綾中をはじめ保護者に説明の一役をかいましたが、翌年、綾高の修学旅行がそれまでの東京、九州旅行から、スキ-の体験学習旅行に替わりました。初めての試みであり保護者に説明するために、綾部市スキ-協会の木下会長、久木理事長に来ていただき学年保護者会を持ちました。以後修学旅行はスキ-の体験学習となり、引率の先生方も生徒も楽になったと聞いています。
初めてのスキ-体験学習は福井県のスキ-場で行われましたが、参加した娘は、インストラクタ-(女性))よりも自分の方がはるかにスキ-が上手であった由、斜面でスキ-の向きを変えるにも自分は「ホィ」なのに、指導員は「モタモタ」覚束なかったと自慢していました。この娘は四都市スキ-大会で十位入賞しました。会社の女子社員も名選手でしたが、女性選手は子供が出来ると選手生命が止まり、また雪がないと四都市スキ-大会は地元開催厳守ですので、数年続けて流れてしまい、折角練習上達しても晴れの舞台が中止なので、私の青春が飛んでいくと嘆いていました。
志賀高原スキ-教室には家族連れで何度か参加させていただき、何時もスキ-ナイトでは乾杯役を仰せつかっていました。昨年に続いての参加となりました今回は、25回目の記念ということで参加できたことを大変嬉しく思います。
綾部市スキ-協会の伝統ある行事が、スキ-クラブ人口の低迷でジュニア教室を除き少なくなっています。この志賀高原スキ-ツアの運営も大変とのことですが、出来得る限りの工夫をこらして頂きますよう、スキ-協会の益々のご発展を祈っております。
2006/01/26のBlog
[ 11:24 ] [ スキ- 銀嶺会 ]
順番に、しゃべっていく
私の順番で離したことを少し補足して、次のブログにしました。
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