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2008/05/23のBlog
[ 08:45 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
[ 07:24 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
国宝 光明寺二王門 鎌倉時代(宝治2年=1248) 三間一戸、二重門、入母屋造、栩葺
鎌倉時代の類例の少ない和様二重門の遺構である。昭和26年(1951)解体修理の際、上層の柱に宝治2年(1248)の墨書銘が発見された。下層天井板に転用されていた棟札には、仁治3年(1242)12月着工、建長5年(1253)5月竣工したことが記されており、建築時期が明らかになった。楔にも永正13年(1516)の墨書があり、その頃修造改変があったかも知れない。
平面は、三間一戸で、両脇に二王像を祀る。後方の間に安置するのは地域色で、前方の間を板張りにして拝堂にしたとも言われ、仁王信仰の盛んであったことを示している。上層は和様高欄のうちに軸部がある。木組みはやや繊細で意匠的に格別注意を払った。屋根は上下とも栩葺なのは珍しい。府下の古建築では極く稀である。斗栱※(トキョウ)は上・下層とも三手先組で尾垂木を付している例は少ない。
室町時代以降、禅宗の大寺院に多く見られる三門は禅宗様※(ゼンシュウヨウ)(唐様)系統である。また、二重門の多くは、一階の屋根がない縁だけの楼門構造である。全体的に見て中世の数少ない和様系の二重門であることや栩葺の珍しい屋根などに価値があり、全体の姿も優れている。(綾部市資料館より)
鎌倉時代の類例の少ない和様二重門の遺構である。昭和26年(1951)解体修理の際、上層の柱に宝治2年(1248)の墨書銘が発見された。下層天井板に転用されていた棟札には、仁治3年(1242)12月着工、建長5年(1253)5月竣工したことが記されており、建築時期が明らかになった。楔にも永正13年(1516)の墨書があり、その頃修造改変があったかも知れない。
平面は、三間一戸で、両脇に二王像を祀る。後方の間に安置するのは地域色で、前方の間を板張りにして拝堂にしたとも言われ、仁王信仰の盛んであったことを示している。上層は和様高欄のうちに軸部がある。木組みはやや繊細で意匠的に格別注意を払った。屋根は上下とも栩葺なのは珍しい。府下の古建築では極く稀である。斗栱※(トキョウ)は上・下層とも三手先組で尾垂木を付している例は少ない。
室町時代以降、禅宗の大寺院に多く見られる三門は禅宗様※(ゼンシュウヨウ)(唐様)系統である。また、二重門の多くは、一階の屋根がない縁だけの楼門構造である。全体的に見て中世の数少ない和様系の二重門であることや栩葺の珍しい屋根などに価値があり、全体の姿も優れている。(綾部市資料館より)
二王像
金剛力士二王の像を安ず、右を那羅延王(ならえんのう)といひ、左を密迹王(みつしやくおう)とよぶ、陰陽阿吽(あうん)の相を現し、強勢の威を振て六境の悪魔を降伏し、守一不適の性を守り、仏法に入べき初門を表したる教へなりと聞けり
普通、口を開けた阿形(あぎよう)と、口を閉じた吽形(うんぎよう)に作られ、一方を「密迹(みつしやく)金剛」、他方を「那羅延(ならえん)金剛」と分けるなど諸説があります。 ともに勇猛・威嚇の相をとり、「仁王尊」とか「執金剛神」(しゅこんごうじん)と
金剛力士二王の像を安ず、右を那羅延王(ならえんのう)といひ、左を密迹王(みつしやくおう)とよぶ、陰陽阿吽(あうん)の相を現し、強勢の威を振て六境の悪魔を降伏し、守一不適の性を守り、仏法に入べき初門を表したる教へなりと聞けり
普通、口を開けた阿形(あぎよう)と、口を閉じた吽形(うんぎよう)に作られ、一方を「密迹(みつしやく)金剛」、他方を「那羅延(ならえん)金剛」と分けるなど諸説があります。 ともに勇猛・威嚇の相をとり、「仁王尊」とか「執金剛神」(しゅこんごうじん)と
2008/05/22のBlog
[ 20:02 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
国宝:二王門に裏から近づく。若狭に抜ける上林街道から、「あやべ温泉」に曲がり直進すると、この二王門に近い所まで車で入れる。この日も数組の家族連れがこの道を利用して、下から二王門に上がり拝観していた。ただし大部分はここ二王門までで、上の本堂などへは上がっていかない。
一方、君王山林道から庫裡横の駐車場に入ると「二王門」は下に降りることとなる。
一方、君王山林道から庫裡横の駐車場に入ると「二王門」は下に降りることとなる。
[ 20:01 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
[ 09:44 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
再び君王山キャンプ場の横を通り、途中で左折して君王山光明寺に寄る。駐車場に車を置き、長い石段を上がれば、京都府指定文化財の「光明寺本堂:江戸時代」がある。
現在の本堂は寺の記録によると江戸時代末期の天保7年(1836)頃に再建に着手され、同11年(1840)に堂供養が行われた。縁の擬宝珠には天保15年(1844)の銘がある。彫物師は当地域に多くの作品がある中井正貞で、老齢に達したためか後継者の名がみられるのが興味をひく。
本堂平面は明らかに中世密教本堂の伝統を受け継いだ形式である。内陣は四天柱の上に出組※(デグミ)をおき小組格天井とし、外陣などの入側に三斗※(ミツド)により鏡天井を受けるなど、復古的な手法がみられる。しかし、天井形式や梁組が簡略化され、結界が開放的になるなど、明るく穏やかな雰囲気をもっており、近世的な建築空間となっている。外観は全体に古めかしく、台輪や蟇股、向拝※(ゴハイ)装飾に近世らしい装飾がみられるにすぎない。再建当初と較べ外陣の床・後陣の脇壇・屋根葺材が変更されているが、全体としてはよく保存されている。
丹波丹後の真言宗本堂のうちでは屈指の規模をもち、最も復古的といえる。中世密教本堂の形式を受け継ぎながらも、近世的特色を所々に見せる大型の密教仏堂として、価値が高い。
現在の本堂は寺の記録によると江戸時代末期の天保7年(1836)頃に再建に着手され、同11年(1840)に堂供養が行われた。縁の擬宝珠には天保15年(1844)の銘がある。彫物師は当地域に多くの作品がある中井正貞で、老齢に達したためか後継者の名がみられるのが興味をひく。
本堂平面は明らかに中世密教本堂の伝統を受け継いだ形式である。内陣は四天柱の上に出組※(デグミ)をおき小組格天井とし、外陣などの入側に三斗※(ミツド)により鏡天井を受けるなど、復古的な手法がみられる。しかし、天井形式や梁組が簡略化され、結界が開放的になるなど、明るく穏やかな雰囲気をもっており、近世的な建築空間となっている。外観は全体に古めかしく、台輪や蟇股、向拝※(ゴハイ)装飾に近世らしい装飾がみられるにすぎない。再建当初と較べ外陣の床・後陣の脇壇・屋根葺材が変更されているが、全体としてはよく保存されている。
丹波丹後の真言宗本堂のうちでは屈指の規模をもち、最も復古的といえる。中世密教本堂の形式を受け継ぎながらも、近世的特色を所々に見せる大型の密教仏堂として、価値が高い。
[ 06:49 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
[ 06:49 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
2008/05/21のBlog
[ 22:14 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
[ 08:08 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]
2008/05/20のBlog
[ 22:39 ] [ 自宅(自分)その周辺 ]