2006 第25回 志賀高原スキ−教室 2

志賀高原・雪山賛歌
 
       
白雪のパステル   夢・幻の樹氷   吹雪に耐えて   吹雪よ揺さぶるな、重たいよう   雪原を抱く  
         
 蒼天に輝く シュプ−ルは描く   日差しと影と   雪に燦めく   雪折れ  
         
神様の粘土細工   輝く雪の巨人   雪山は女体   輝く雪原   聳える連峯  
         
ゴンドラ、樹氷界を渡る  豆粒のスキ−ヤ−が見えます 氷雪樹海   蒼天に燦めく樹氷   キンキン・キラキラ朝日に溶ける お山のてっぺん、ありん子いっぱい。
スノ−パウダ−(おさとう)のかかった山(ケ−キ)にたかる、ありんこ(スキヤ−)  
         
光と陰   お山のてっぺん   虹に映える   信州一望   銀世界の番人  
         
佇む雪坊主   樹皮の輝き   埋もれ樹   着雪樹のキラメキ    
 「雪気」ばかしじゃつまらない「食い気」とスキ−よもやま話
 前夜の10時綾部を出発、舞鶴からかなりの吹雪の中を走行して、敦賀から北陸高速道に乗り大型バスは、二人の運転手の努力でチェイン操作も順調に行われ、予定の朝7時前には高天原スキ−場、ホテルタキモトに到着した。
スキ−用具を地階の乾燥室に運び込み、用意された着替え室に荷物を置き、朝食を取る。朝食はバイキングで別会計1000円(到着時間不安定で予算外)。好きなだけ皿に取って食べられる。和食あり洋食あり、ご飯、みそ汁、パン、飲み物などお変わり自由  
   
バイキングで料理を取る   バイキングの最後は、ご飯、みそ汁コ−ナ−サ−ビス付き。大きな食堂は自由席で食べる  
         
スキ−教室の仲間たち 昼食は、午前中スキ−の講習を受けながら、リフトを乗り継ぎゲレンデを回った先のスキ−・ロッジで食べる。
カツ・カレ−1200円、高い!  
講習グル−プの記念写真。ロッジの方に撮ってもらった。レンズが暖気で曇りしばし乾燥させてから撮影   食事中   ホテル・タキモト1日目の夜食
スモ−クサ−モン  
 ☆☆☆:05様からのコメント
>雪山だらけですね 笑
>是非、食べ物も

私からのResです。
そうなんです。「雪気」ばっかしじゃつまりませんね。お腹がへると戦は出来ないです。「食い気」も満足させましょう。
ついでに暖かい団らんの輪も、面白可笑しいスキ−よもやま話も・・乞うご期待!   
 お献立
海の幸のトマトス−プ鍋
切り干し大根とゴボ−のピリ辛味
リンゴと赤大根のサラダ
長いものス−プ煮
スモ−クサ−モン
鶏肉のカリカリ焼き
デザ−ト   
 
長いものス−プ煮  
         
鶏肉のカリカリ焼き   スキ−ツア第一日目のホテル・タキモトの夜食   デザ−ト   2列のテ−ブルに座り、4人で1つの鍋をつつく。食べ終わって「おじや」をつくる。ご飯はお代わり自由
         
ビ−ル、酒、焼酎の水割り・・好きな人は、どんどん飲んで次々注文。余り食べない   夜食の後は各自、割り当てられた部屋で休憩。ドブログ)一升瓶を持って訪れた、綾部市スキ−協会副会長のO氏を囲んで話が弾む みなさんスキ−歴:ん十年のベテランばかりとあって、様々なスキ−話が出る。全員シニア割引リフト料金利用の敬老会の常連     白馬ゴンドラの事を誰か話している。立山の春山スキ−も話題に上る。
私も幾つかのスキ−話を紹介した。最後のブログ、ご笑覧ください 
         
2日目朝食、バイキングで食べる   食堂の入り口に並び、朝食券をわたす   コの字型に並ぶテ−ブルを回り、食べたいものを食器にとり、トレイにのせる   広い食堂で食べる。
食後スキ−の服装に着替え、すべりに出る  
昼食は、焼額に渡る一ノ瀬スキ−場のロッジで食べた  
  2日目の夜食のお献立
辛み味味噌鍋
長芋のパンケ−キ
アボガドとリンゴのサラダ
大根の韓国風煮
信州そばのパスタ風
豚ひれ焼き
デザ−ト  
     
辛み味味噌鍋の野菜、たっぷりある   アボガドとリンゴのサラダ   長芋のパンケ−キ  
         
信州そばのパスタ風   大根の韓国風煮   デザ−ト   4人に1つの鍋を食べながら、和やかに歓談。楽しい食事風景   
         
 隣り合ったテ−ブル二列に座り、和気藹々の食事風景。お酒の好きな人は次々に飲みたいものを注文し、お互いに注ぎあって飲んでいる      
       表彰状をわたす綾部市スキ−協会の木下会長
木下会長の挨拶(要旨)
毎年恒例の志賀高原スキ−教室も25回を迎えました。今回参加いただきました皆様を心から歓迎いたします。・・思いかえせば最盛期には、1シ−ズンに1、2、3月の三回バスを出し、また同時に2台のバスを出して補助椅子を満席にしても参加者を断らざるを得ない時もありました。近年は様変わりの状況となり、今回も40人乗りの大型バスに24名の参加で、現地参加2名を合わせてのツアです。・・
今回一つの節目として、この行事を最初から今日まで世話をいただいて来ました、久木さんに記念表彰を行わせていただきます。・・
ここで悲しい報告ですが、今回をもってこの志賀高原スキ−教室の開催を再検討せざるを得ない状況となりました。  
綾部市スキ−協会・第25周年・志賀高原スキ−教室・記念パ−ティ   今回のツア参加者の人たち   司会する綾部市スキ−協会:荻野副会長  
 表彰を受けた久木副会長の挨拶(要旨)
私が家業を継ぐべく綾部に帰省して、この志賀高原スキ−ツアを手掛けさせていただき、今日まで皆様には多大のご協力を頂きましたこと厚く御礼申し上げます。私がプロとして過ごしました志賀高原ですが、プロ・アマの両立が許される資格の中で皆様のお世話をさせていただいて参りました。・・この雄大な志賀高原スキ−リゾ−トの魅力は捨てがたいものがあります。今後も何らかの形で皆様と訪れ続けたいと念願いたしております。・・(文責なべちゃん)    
   
用意されたオ−ドゥブル。美味しそう   カナッペ  
         
ピザ   ビ−ルなどの飲み物   皿に取る人たち   パ−テイ風景   
         
順番に、しゃべっていく
私の順番で離したことを少し補足して最後に入れました  
ビンゴが行われ、電光式にランダム番号を表示していく。便利なものが有るのだな   ビンゴで当たった人から好きな賞品をゲット     3日目の朝食。バイキングで好きなだけ食べられる。ご飯、みそ汁、飲み物のお代わりも自由。そんなに食べれれない 
    帰り支度して昼食をホテル・タキモトの談話室で食べる。カレ−ライスにサラダなどついて1000円。三日間使ったリフトのセンサ−をホテルのフロントに返すと、1000円戻ってくる。それで間に合った。薪を燃やす大きな囲炉裏があり、煙のラッパ型煙突が付いた豪華なフロント前談話室で出発までしばしの間、歓談しながら待機する        
高速道路に上がる手前の信州名産販売のドライブインに寄る。各自ここでもお土産を物色。野沢菜を買った   北陸高速道路のSA。ここで夜食を食べる。福井県   往復に使った京都交通の大型観光バス。
東舞鶴、西舞鶴の駅前で参加者を下ろし、綾部振興局前に23時に帰着した。
長い連載ブログを見ていただき有り難うございました
食後の2次会や記念パーティで話した私のスキー四方山話し    
 3度死にそうになったスキ−・ツア
「恐いのが面白い」がモット−の私ですが、3度死にそうになったスキ−・ツアの話です。
5時に会社を終え、スキ−用具を抱えて、リュックを背に会社の先輩方と富山駅に駆けつけました。
列車は超満員でデッキの入り口で支えてしまい、スキ−を抱えて、もたもたしているうちに列車が動き出しました。
がたんと揺れたとたん、はじき出され、気が付いたときは、プラットホ−ムを外れたばかりの地面に落ちていました。
列車は急ブレ−キをかけて止まり、慌てて乗り込みました。デッキがやけに高かったのを覚えていますが、今度は中に入れてくれました。
 その日は、白馬山麓の細野部落の民宿に泊まり、翌朝早く、白馬兎平に直行のゴンドラ・リフトに並びました。快晴でした。
 うさぎだいらで、気持ちよく滑っていると、突然強風が吹き出しました。山おろしの突風でした。
仲間ともはぐれ、立っているのがやっとの状況で、積雪をどんどん巻き上げる、大変なブリザ−ドでした。
雪の粒が飛んできて顔に当たり、痛いのと、寒いのとで、顔が凍り付きました。
上へ歩こうにも、休み休み、風の具合を見ては、2歩前進して1歩後退する状況で、やっとモ−タのあるロ−プ・リフト小屋にたどり着きました。一坪ほどの小屋は超満員で、何とか風をしのげました。
小屋から見ると、顔につららをつけた人が何人も倒れていました。
 そのうちに誰かロ−プを輪にして、中に人を収容しながら、集団の力で上がってくるグル−プが活躍し始め、皆が救われたようでした。
 風が止み少し滑りましたが、下りることになり、リ−ゼン・スラロ−ムという、国体滑降コ−ス(本年のオリンピック・コ−スにもなった)を滑り始めました。この冬は積雪量が少なく、例年よりも幅の狭い大変な難コ−スでした。
 途中転倒してしまい、アングリ−メンというスキ−バッケンが外れ、スキ−を外すこともできず、ウェアもビニ−ル系の滑る素材のもので、カチカチの氷雪の急斜面を止める術がなく、ずるずると急斜面を落ちる一方でした。
巻き込まれるのを恐れて、誰も眺めるだけで止めてくれず、日も暮れ、暗くなってきた中であせりました。
結局手袋を脱いで素手を氷雪に当て、やっと止まることが出来ました。
ずいぶん長い時間を斜面を止まっては、ずるずると落ちていたと思います。
 この日、白馬稜線直下の第3ケルンでは、6名の犠牲者が出ました。

補筆:
・当時の国鉄の北陸本線は、ディ−ゼル機関車で、車輌のデッキには戸がついてなく、のり口に段が付いていて、フラットデッキになり、車内にはいる処に戸があったと思う。
プラットフォ−ムを外れたばかりの所で、スキ−を抱え、リュックを背負ったまま後ろ向きに落ちたので、怪我はなかった。
しかし線路脇の構造物、土手、川などのあるところ、もう少し列車の速度が上がっていたらと思うとぞっとする。
見送り確認の駅員(助役)が、プラットホ−ムの端を目がけてこちらに走ってくるのを目にした。落ちるのを見たとして機関車の機関手にどのように報せたのか、機関手が見つけてくれたのか、置いて行かれずに、ともかく幸運だった。
置いて行かれたら後続の列車に乗り、糸魚川で乗り換えて白馬山麓まで、1人で行けなかったと思う。
行き先は、不二越社員寮に私と同在で、同じ職場の先輩任せであったので宿泊先も知らなかった。
・この日の白馬山麓の死亡事故は、新聞のトップニュ−スとして大きく報道された。関西のスキ−場でもかなり激しい「山おろし」を経験するが、海陸の気温差で発生するのだと思う。白馬兎平(ぴょんぴょんたいら)は、高所にあるので体を屈めて蹲るのがやっとで非常に激しかった。じっとしていたのでは死んでしまうので、南極大陸日本基地のブリザ−ドの話しを想像しながら、じりじりと登り始めかなり斜行した。
・リ−ゼン・スラロ−ム(かみそりの刃の滑降斜面)は、気温が下がり青氷と化し、ボ−ゲンで下りる幅もなく、急傾斜で、スキ−エッジも効かず、横滑りで下りていて転倒しました。転倒の最初は、急傾斜面で頭が下、足が上の最悪の状態で、何とか頭を斜面の上にしましたが、止まりませんでした。ストックの雪輪付近を握って雪に突き立てましたが、全く突き刺さりませんでした。手袋を脱いで素手で雪面に当て、止まれたのは、少し傾斜がゆるんだところに入ったからだと思います。暗くなっていて周りの状況も判らず恐い思いをしました。
・「九死に一生を得る」と云いますが、冒険小説のヒ−ロ−/ヒロインは当たり前のように乗り越えています。
三死に一生の恐い思いをしましたが、怪我もなくすんで幸運でした。
・山では、昼食時に一緒だった福井工大生たちが、その日に剣御前の小屋を前にガスにまかれ死亡した。
雪彦山鎖場を下りた翌日に、鎖が切れて転落死亡した。など危機一髪の状況が報道され、びっくりします。

ユニークで孤独な作家を目指す赤毛のMOUSOU奮闘記:亞來拓也様
「事実は、小説よりも奇なり」にトラック・バックで協賛投稿しました私の投稿と補筆でした。ご笑読ください。  
 
私のスキ−・アラカルト(回想)
 子供の頃は雪が多く、神宮寺の一番奥にある山の神に住んでいましたので、友達に教えられて、青竹を火であぶり先を曲げ、箱に打ちつけて、はこぞりを作り、近所の子供と遊びました。
 富山の不二越に入社して、先輩に教えられ総曲輪のスポ−ツ店に行き、みずなら材の金田のスキ−とダ−クホ−スの靴を買いました。全部で給料1ヶ月分より高かったと思います。スキ−は金属製のエッヂが付いていましたが、よく折れて外れ、行く度に修理をしました。バッケンは、ト−ピ−スだけに、一応セ−フティの付いた、ガンダハ−式のものでした。靴は馬革製のすごいもので大奮発しました。
 その年は、糸魚川の魚津スキ−場、大川寺スキ−場、宇奈月スキ−場などに行きました。我流で滑っていましたので、あまり上手くなれませんでした。立山の春山スキ−に職場の先輩達と行きました。美女平から雪上車(ウィ−ゼル)に先輩達はロ−プで引っ張って貰いましたが、私は不慣れなので上に乗りました。
 弥陀ケ原ホテルは完全に雪の下でした。雪のトンネルを中にはいると、スト−ブで山男が目刺しを焼いていました。思わず唾が出ました。以来私も山小屋で目刺しを焼くのが夢になりましたが、未だ果たせません。
 未明に一人起き出し、星の残っているホテルの前で、山回りクリスチャニアの練習をしました。完全に凍れている雪面なので割合簡単に成功しました。この頃は、猪谷千春というオリンピック選手が活躍し、ジャンプ・クリスチャニァという回転技術が脚光を浴びていました。私も飛んだり跳ねたりしてみましたが、基礎が出来てなく、とうとう出来ず終いでした。美女平までの長いコ−スの山スキ−を楽しみました。
 翌シ−ズンの11月23日の勤労感謝の日の連休で、立山に初滑りに行くこととなり、弥陀ヶ原からは歩いて、立山稜線の一の越山荘で宿泊しました。まだ滑るだけの雪は積もっていませんでした。一夜明けると寝ている間に降雪があり、美女平まで滑ってスキ−を楽しみました。
綾部に帰ってからも、ずっと家族で滑っていましたが、地元のスキ−同好者の集まりである、四峰スキ−クラブに入会しました。スキ−協会の志賀高原ツア−にも、子供のつきそいを口実にして、若い方々の中にまじって参加し、スキ−・ナイトの懇親会で乾杯の役をやるのが常でした。
 若い人たちとは到底、滑降タイムが合いませんので、I君と綾部クラブ対抗戦などの選手権に出て、2人だけのタイムで、百分の一秒差の大回転滑降を争うのが楽しみです。

追記:
・立山スキ−は、11月に入ると勤労感謝の一週間前にも有休を取って行きました。初回は雪上車に乗りましたが、2回目からはウィ-ゼル(雪上車)にロ−プで引っ張ってもらいました。弥陀ヶ原から歩いて一の越に登り宿泊。翌朝ケ-ブル終点の美女平までの凄い長距離を滑りました。天狗の麓の雪だまりに突っ込んで埋まり、スノ−パウダ−が顔面のみならず口鼻に入り、さらに首元からお腹まで入りこんで冷たい思いをしたり、ずっと全コ−スが片斜面なのでボ−ゲンの片足だけが痛くなったりで滑りました。
・後年に綾部から2回、春山スキ−に行きましたが最早バス道が開通した後は、弥陀ヶ原までしか滑られず。残りのル−トは滑降禁止になっていました。一の越予約でしたが吹雪で登れず、室堂小屋で宿泊し翌朝は時間をかけて天狗山にスキ−を担いで上がり、滑りはあっという間のほんの一瞬でした。ヘリコプタ−が飛来し、雷鳥沢に下りていました。何か事故があったように見えました。
・不二越に同期入社で同じ職場にS君がおられました。スキ−板は世界一のものを持つのだと言って、外国製(オ−ストリア)の最高級のスキ−(クナイスル)を買われました。当時はメタルスキ−、グラスファイバ−スキ−、ハニカムスキ−などが発売された時代で非常に研究熱心でした。直カリ(直滑降)専門の猛者志望でしたが、足を骨折され富山県立病院に入院されました。
職場で見舞いに行くこととなり、骨折の特効薬だという「トンソク」なるものを買いに寄りました。「トンソク」って何か知らなかった私に、蹴爪の生えた「豚足」だと、手で示しながら先輩達が「おどろおどろしく」説明してくれました。それでも何で「豚の足」を骨折の見舞いに持って行くのか「ギョット」した感じでした。実物を見て分かりましたが、とても食べる勇気はありません。
・婚約中の家内と芦峅寺にスキ−に行きました。ゲレンデが一面しかない状態で、殆ど私達二人だけでした。滑っていると地元の方か、スキ−の上手な体格の良い人が話しかけてこられ、その方に大回転クリスチャニアを、かなりの時間、二人に手ほどきしていただきました。お名前を聞くと佐伯さんと言われていました。後で気がついたのですが、南極第一次越冬隊メンバ−だった佐伯富雄さんだった様に思います。大変な方にスキ−を教わったようです。
私と綾部市スキ−協会
   富山から綾部に帰り大本弥勒殿で結婚式をあげました。新婚旅行は志賀高原熊ノ湯に行きました。綾部駅の近くにある料理旅館で披露宴をして、そこでスキ−の格好に着替え、披露宴のお客さん方(Y君、I君の父親も同席)の見送りをプラットホ−ムで受けながら、深夜特急「日本海」に乗りました。当時はスキ−宅急便などなく全部自分で担いでのスキ−でした。新婚旅行でスキ−に行くこと自体がまだ珍しい時代でした。熊ノ湯の硫黄温泉に入り長女を授かりました。志賀高原では横手山山頂に登りスキ−を堪能しました。
 そうして所帯を持つと間もなく隣の会社のY君(現スキ−協会副会長)に誘われて四峰スキ−クラブに入りました。今の(財)綾部市体育協会の前身時代で由良会長から久下会長に交代された時に監事から理事になり、スキ−協会の木下会長とは同期の桜でした。私はテニス協会で木下会長と同様、体協の理事と単位協会会長の二足のわらじを履きました。実際はもう一足、四峰スキ−クラブの木下会長に対して、私も綾部ロ−ンテニスクラブ会長の三足を履いていました。
その当時の体協理事の任務に市民スポ−ツ大会の分担があり、私は空手道の理事と2人で綾部市民スキ−教室、綾部市民スキ−大会の2行事の担当理事になりました。
 行事の当日は現地(神鍋万場、名色、山の宮、大岡山スキ−場など)に行き、市民の登録受け付け、コ−ス作り、ゴ−ル・タイムの張り出し、表彰などを手伝いました。空手道の理事は万場のスキ−リフトが初乗りで、見事乗り始めで乗り損ね落ちられ、後は歩いて移動され、次の行事以降はリタイヤでした。
 スキ−は我が家の家族スポ−ツでしたので、子供達も連れて行き保育園児の女子も小学低学年組で大会に出していました。私の方は、現役の若手選手とはタイムが合いませんので、一歳違いのI君と大回転滑降で百分の1秒を争って楽しんでいました。
 クラブ対抗スキ−大会も盛大に行われ、N社チ−ムなど前日から泊まり込みで参加の活況でした。このクラブ対抗戦は、殆どテニス室内選手権大会とバッティングするので、参加は3年に一度位だったと思います。各チ−ムの上位入賞者得点で順位が決まるので、I君と私の参加で四峰クラブが優勝と云うこともありました。
 ジュニア・スキ−教室が企画され、保護者会の初会合にも参加させていただきました。さらにジュニアスキ−教室にも子供と一緒に(大屋・奥鉢スキ−場など)参加しました。テニス協会でもジュニアテニス教室を始めるに当たり、この時のスキ−協会の保護者会の対応をつぶさに見せていただいた事が大きな参考になり、感謝しています。
 京都府政が革新の蜷川知事から林田知事に替わり、高校学制の京都方式四原則が廃止され、綾高にも体育系の三類が創設されました。当時のPTA会長として綾中をはじめ保護者に説明の一役をかいましたが、翌年、綾高の修学旅行がそれまでの東京、九州旅行から、スキ−の体験学習旅行に替わりました。初めての試みであり保護者に説明するために、綾部市スキ−協会の木下会長、久木理事長に来ていただき学年保護者会を持ちました。以後修学旅行はスキ−の体験学習となり、引率の先生方も生徒も楽になったと聞いています。
 初めてのスキ−体験学習は福井県のスキ−場で行われましたが、参加した娘は、インストラクタ−(女性))よりも自分の方がはるかにスキ−が上手であった由、斜面でスキ−の向きを変えるにも自分は「ホィ」なのに、指導員は「モタモタ」覚束なかったと自慢していました。この娘は四都市スキ−大会で十位入賞しました。会社の女子社員も名選手でしたが、女性選手は子供が出来ると選手生命が止まり、また雪がないと四都市スキ−大会は地元開催厳守ですので、数年続けて流れてしまい、折角練習上達しても晴れの舞台が中止なので、私の青春が飛んでいくと嘆いていました。
 志賀高原スキ−教室には家族連れで何度か参加させていただき、何時もスキ−ナイトでは乾杯役を仰せつかっていました。昨年に続いての参加となりました今回は、25回目の記念ということで参加できたことを大変嬉しく思います。
 綾部市スキ−協会の伝統ある行事が、スキ−クラブ人口の低迷でジュニア教室を除き少なくなっています。この志賀高原スキ−ツアの運営も大変とのことですが、出来得る限りの工夫をこらして頂きますよう、スキ−協会の益々のご発展を祈っております。