2007 綾部小学校6−5クラス会

昨年行われた古希を祝う会(干支頭の会)の同窓会で今年10月28日(日)に開催宣言(予告)をした、綾部中学校S27卒業生同窓会のPRと出席依頼のため、10時51分発のJR特急に乗り、U君、Hさんの3人同行で、京都二条駅前の弥生会館で行われた綾部小学校S24年卒6年5組の同窓会に参加した           
あいさつされるT君   S君の持参した赤玉ホワイトワインで乾杯   懇談中の同級生   会食中の同級生  
大学生の時、「酔う」という気分を実体験する目的で、赤玉ポ−トワインを一瓶買って来て下宿で一人で飲んだ。酒嫌い(辛く苦く渋いので)だったが、口当たりが良く(甘いので)飲み続けた。そのうちに真っ青な顔色になり、酷い気分になり吐いてしまった。この手の赤玉ワインのアルコ−ルは要注意だったと、持参したS君が話してくれた。普段酒も飲まないのに私のγgtp(ガンマGTP)が高いのはこのときの経験が原因だろうか?    
アメリカ居住から帰国中のMさん、吹田市のU君、奈良市のO君、神戸市のK君、武蔵野市のN君、西宮市のM君、松戸市のMさん、地元京都市の Iさん、U君、T君、Hさん、綾部市からの3名をふくめ合計13名の出席     
  二次会は地下鉄に乗り、東西線、南北線と乗り継ぎ、京都十条まで移動。
朝のJR綾部駅で「国民学校卒業生同窓会」と書いた幟を3流ほど持った男女の一団に出会った。顔見知りの方も居られ聞くと、昭和20年終戦の年の綾部小学校の卒業生の方々だった。私たち尋常小学校S24卒業の3年上級生になる。私の3歳違いの叔母(綾部に疎開して来て「小さい姉ちゃん」と呼び兄弟のように一軒家で育った母の妹)の同級生の方々であった。一同、橋上駅のJR綾部改札口の前で遠方の参加者が到着されるのを待っておられた。叔母の顔は見えなかったので後で電話しておいた。一同は北口から下りて「あやべ甲子園:ゲ−トボ−ル宴会場」に行き同窓会だとのことであった
   カラオケ店に着いたが、来客者の曲の予約が混んでいるので、前の小さなカラオケ店に移動、ここで歌が始まった。女性の同級生が道路を挟んだ両方の店を行き来して、ビ−ル、つまみなど運んできてサ−ビスしてくれる      
いくつになっても「なかよしこよし   仲良く歌うN君、Hさん   少し歌って前の大きな店に移動
         
こちらの店は大きくステ−ジも立派。大勢おられた来客の姿はなく私たちだけの貸し切り状態になった。仲良く持ち歌を歌うU君、M君   N君とHさんの歌も息が合っている   一隅の席に集まって座り、互いに小学生時代の思い出話も弾む   M君とHさんの熱演   K君とMさんも歌っている  
         
仲良く歌っているM君とHさん   K君とU君が歌っている。楽しそうだ    U君とHさん。楽しそうだ U君とMさんがステ−ジで   みんな輪になって別れのフィ−ナ−レ  
会費は男子だけ徴収、1人2500円だった。安い。地下鉄に乗りJR京都駅から山陰線特急で帰綾した。U君、Hさんは、このあと同窓会に参加できずにJR綾部駅で待っていたN君と三次会へ直行された    
 
私は三歳児の時から風邪から来た慢性中耳炎耳が悪く全くの音痴自分の声が分からない。当時はペニシリンがなかった。言葉の教室に通い「サシスセスセソ」・・などやったが歌は全く駄目。そのくせ人一倍の音楽好き。ピアノ曲、協奏曲などクラシックからジャズ、ラップ、ダンス曲など何でも良い。演歌もまあまあだが歌わないので歌詞は一曲も知らない。
U君が中学一年生だった時の新任の音楽教師:引原先生から手紙を貰ったと見せてくれた。何でも合唱祭があり、U君が指名で代表に選ばれ出演したとのこと。今秋に開催する綾中S27同窓会に是非先生を呼んで欲しいとのことである。
私は音痴なので、音楽の実技は0点だったが、音楽のペ−パ−テストは好成績で、通知簿では1と5が同居していた。ト音、ヘ音記号「トニイホロヘハ、ヘロホイニトハ」や作曲、楽曲形式、音楽イメ−ジ・・・などのテストは、自分が歌う以外は何でもござれであった。今考えると歌の上手な同級生が、どうして音楽理論には弱かったのか不思議でたまらない。図画・工作・美術、体育も同じく実技は評価:1、理論(ゴッホなどの美術鑑賞、柔道の技の解説など・・)は評価:5だった。
人生訓:評価5があるよりも、評価1のないのが絶対良い!劣等感に悩まなくて済む。また人には何か代償作用があり、歌の代わりに「ダンス」なら人には負けない。耳が悪いことの代償は、「しっかり聞いたことは、しっかり覚えていること」である     
 私は「」が悪いだけでなく、「」も「」も悪い。今も耳鼻咽喉科の病院に週1回通院して治療を受けている。他でもないこの同級生のU君の自宅こそ「U耳鼻咽喉科医院」で、私が毎週通院して治療を受けていたところである。「」は苦い薬をつけられ、口を開けて蒸気を5分間あてる。「」は蒸留水で洗って貰う。「」は綿棒で出ている膿をとってもらい薬をつけてもらう。
現在のU君そっくりだった優しいU先生が亡くなられてからは、市内にある他の耳鼻科医院に行き、大学生の時に「蓄膿」の手術をした。現在でも「」に5分間の「ミスト」を当てる治療が加わり、週一回の「耳・鼻・喉」の治療を受けている。「」も悪かったが、中学生の時、綾部にあった日赤病院で「目の病巣」を焼いて貰い治癒した。しかし左目の視力は0.3しかない
私は耳が悪いので自分の声が分からない「完全な音痴」であるが、喉も悪いので大変な「悪声」だと思う。私の話し言葉を評価して先輩は「念仏声」と云ってくれた。また「君が代」の国歌斉唱の時などは、口だけ動かして「声を出すな」と注意された。
けだし新任の音楽教師:引原先生に見込まれたU君が「天下の美声」の持ち主なら、私はさしずめ「天下の悪声」だと思う。今でこそ「音痴」だと云って「カラオケ店」でも歌わずにすませられるが、学生時代は、そうはいかず「輪唱」などを熱心に指導される先生について、歌わされることが屡々であった。前述のように歌の実技は0点なので、逆に音楽のペ−パ−テストを頑張り、評価5を貰っていた。特に苦労して歌わせられ記憶に残るのが、この「闇路」という歌だ。
おぐらきよわを 一人ゆけば 雲よりしばし月はもれて 
 一声いずこ 鳴くほととぎす。
みかえるひまに 姿消えぬ 夢かとばかりなおもゆけば
 又もゆくてに 闇はおりぬ
  
私は人との会話ができない。自分が「聞こうと意識」した時にだけ、「その人」の「言葉」がわかり、しかも「言葉全部」でなく、「言葉の端々の単語」が聞き取れたのを、暗号もどきに「推理で補って」「会話の筋を理解」している。複数の人間が会話しておられるともう分からない。それで会話に割り込む機会が全く掴めない。発言しても会話でなく、私が一方的にしゃべることになってしまう。話したり聞いたりの対話が私には出来ない。
育友会の懇談会などや議長をする機会も多かったが、出た質問、意見は聞こえないので、副の方にメモを書いて貰った。耳打ちされてもどうにもならないのでメモでお願いした。大体だされる質問、意見の予測が出来るので、聞き取れた単語から見当をつけて返事、回答することが常である。
私は大変な「口下手」だと思う。発言に「アノ−」などの間を連発して入れられる方も多いが、私にはそれが出来ず、一方的に間をおかず一本調子でしゃべっている。しかも自分では、きちんと言葉の終わりまで話しているつもりだが、言葉尻を飛ばしてしまっているようにも思う。仕事でクレ−ム処理などをする場合、こちらが一方的に説明してしまうと、実は相手方は何も分かっておられなかったと云ったことが屡々おきる。
私の話し声を「念仏声」と批評した友人も、じっくり聞けば非常に良いことを言っていると褒めてくれた。口から生まれられたような政治家の言語明晰なスピ−チから見れば、口べたの悪声の私は随分の損をしている。また後ろから大声で「なべちゃん」と呼びかけられても、私の注意がそちらに向いていない限り「雑音」であり、体に触れられるか、正面に廻り話しかけるかしてもらう必要がある。それで話しかけられても返事しないので、随分と無愛想な人間だと思われてしまうことも多々ある。
また逆に宴席などで話し込もうとすると、中座されてしまう相手がある。こちらが一生懸命に話しているのに中座されてしまい、自分が情けなく気が滅入ってしまうのである。
会話の内容を10割とすると、2メ−トル離れた人の話でさえ、1〜2割しか聞こえない場合が多い。「アノ−」を連発されるというのは、私が「アノ−」だけが、しっかり聞き取れるからに他ならない(笑い)
一生懸命に会話に注意力を集中しても、聞き取れるのは6〜8割であり、それを推理で補足しても決して10割にはならない。DVDビデオなど大音量にして聞き、繰り返し聞いても、何を言っているのか理解出来ない場合もままある。文字が付いている場合はそちらで助かる。
会話が10割完全に聞こえないので、それを補う推理の方に労力を取られ、次の反応・行動が遅れがちである。10割を聞きとれる人は即座に物事の賛否、損得を判断し、次の行動を取られる。私の場合は、話が済んでしまってから、帰り道などで「しまった!」と後悔することが多い。
面白いことに、10割が聞こえないので、少ないデ−タ−で連想する癖があり、また錯覚もある。それで人の思いつかない「欠点」や、話されなかった「」に気がつく場合がある。難聴者にとり、これも一種の代償作用だと思う。
以上、耳の悪い難聴者の、悪声の口下手劣等感をさらけ出し、皆様の気を悪くしたことをお詫びする次第である    
 
 京都で世話役幹事のU君から記念写真と礼状が届いた。またOさんの撮られた写真も同封されていた。
綾小6年5組クラス会出席のみなさんへ
拝啓、曇陶しい梅雨空か続いています。その後はお変わりなく、益々ご健勝のことと拝察いたします。
 過日のクラス会には、いろいろとご予定のある中、曲げてご出席くださり、有り難うございました。おかげで楽しく有意義な会になりました。
 何かと至らぬことやご不満な点も多々あったことと存じますが、当日のお天気、会場の眺望、それに何より、盛り上がった雰囲気に免じてご容赦ください。
 生活のため一生懸命働いていた頃とは異なり、この年になると妙に人恋しくなるもので、中でも何の利害関係もなく、童心に却ってはしゃげる6年5組のクラス会は実に楽しいものです。他のクラスの人だちからは、6年5組はマメに毎年ようやってやなと、羨望かあきれたかの声を聞くこともありますが、皆さんに異論が無ければ毎年やりたいものですね。
 願わくば、これまで一度も出席されていない人たちが、多数来ていただけるように、皆さんからのお声がけもお願いしたいと思います。
 席上申し上げたように、当日の模様は、8月の週は未定ですが、月曜日の京都新聞夕刊に掲載される予定です。
 当日写した写真、「奥ちゃん」のカメラの分も含めて同封します、思い出に浸っていただけたら幸甚です。 以上、お礼かたがたご連絡まで。 敬具  
 
6月29日(金)に開催する「綾中S27卒同窓会準備世話役会」で話題にするために、綾中恩師の音楽担任先生の紹介をU君に頼んでおいた「メモ書き」も合わせて届いた。U君有り難うございました。
半世紀ぶりの便り U君wrote--
 郵便受けに白い封書が入っていた、今流行りのパソコン文字でない、しっかりした毛筆でしかも達筆であて名が書かれていた、裏を返すと、差出人は全く身に覚えのない女性からであった。
 開封してみると、なんと今から58年前払が綾部中学校1年の時、音楽担任であったU先生からであった。先生は結婚され姓が変わっておられるが、ご主人に先立たれ、80歳になられた今も地域のコーラス指導などに、元気で頑張っておられるご様子である。
 文面には、時々私が京都新聞や故郷の地元紙に投稿しているのをみて、同窓生に私の住所を聞き「懐かしくて突然のお手紙を差し上げました。」と書かれていた。 そういえば58年前、正式名称は忘れたが、両丹地区中学校の音楽発表会?に払を出場させることになったとかで、放課後U先生の特訓を受けたことを思い出した。当時先生は学校を出られて間もない新任教師であったが、何度も何度も、熱心にレッスンしてくださった。
 発表会は、たしか波多野記念館で行われたと思う。出番の前「落ち着いて、頑張るのよ」と励ましの声をかけていただいたが、結果はどうであったか記憶にない。手紙を読み終えて、すぐ先生に電話した。受話器の向こうの先生の声はとても80歳とは思えぬ若々しいお声で、今も元気に走り回っていますとのことであった。
 あのとき私が歌ったのは、讃美歌の「いつくしみ深き」を教科書に取り入れた「星の世界」という題名であったと文面にあり、今あらためて知った次第である。あれ以来、一度もこの歌を口にしたことがないのだが、「いつかもう一度先生のピアノであの歌を歌ってみたいです」と受話器を置いた。
 先生は58年も前の教え子の名前を覚えていてくださったのだが、教え子であった私はとっくに忘れていた。まことに申し訳ない気持ちでいっぱいである。願わくば、近いうちに先生と58年ぶりの再会を果たしたいと思っている。