2006 小畑三社祭 やっこ振り( 小畑のやっこさん) 小畑六左衛門
小畑のやっこさん 取材調査
一宮神社(鍛冶屋町八塚ケ谷付近) 様子を聞きに元豊里西小学校の「里山ネット」に行き、職員の塩見直紀氏に場所、様子を伺い地図をいただいた。小畑村小学校は豊里西小のことでなかろうかと云うことであった この三神社から繰り出した御輿など行列が会して「やっこふり」を披露する模様である詳しい資料の提供を四方事務局長など知人に依頼している |
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「小畑のヤッコ振り」 資料調査 旧村部で一番賑やかな祭りと聞く「小畑のヤッコ振り」の資料を求めて綾部市図書館へ行った2冊の小冊子があった。 昭和52年3月発刊「ふるさち綾部の祭り」観光協会 一の宮神社(鍛冶屋町):祭りは10月10日、以前には有名な小畑祭の中心のお宮として盛大なお祭り行事が行われていたが、現在は神前に神輿をまつるだけになっている。 小畑祭は神輿、屋台の行列に大名行列、ヤッコ振り等その盛大さはまことに立派なものであったが、今全くそれが中止されていることは残念である。しかし道具や衣装などは大切に保存されているので、いつの日にかそれが復活されればうれしいことである。2冊とも同じように「ヤッコ振り」断絶を記録している内容であった |
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2000.3発行で現在、綾部観光案内所で配布の「ふるさと・あやべのまつり:綾部市観光協会」にも歳時記一覧表などに「小畑祭り:小畑ヤッコ振り」の記事がない | 実際は昭和46年9月発刊の「丹の国・綾部:綾部青年会議所編」に写真家の撮られた「小畑のヤッコ振り」が掲載されているので、随分早くから復活していたことを地元の人から確認できた。 写真説明:小畑のやっこ振り: 古来当地方で有名な祭りである。そのにぎやかさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは、吉美高倉神社の祭、最も盛んなのは小畑の馬場といわれた |
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○小畑祭 小畑村史は作られていないようで「豊里村史」から集録した 小畑祭は、古来郡内でも有名な祭であって、その賑かさは、近郊の祭礼中、最も人出の多いのは吉美高倉神社の祭 最も盛大なのは小畑の馬場といわれている。 毎年旧9月16日が祭日である。馬場は鍛冶屋、幅三間・長さ一町半許り。15日の夜は、宵宮といって、各々氏神前で祭礼を行い、翌16日は、中、鍛治屋、小西の三部落より、神輿四社・屋台三社、その他鉾2つ以上、獅子各々1宛の渡御がある。 当日は正午を期して、各部落共氏神境内に参集し、勢揃いして馬場に向う。その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20〜40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く。次に祭礼組(屋台の練り込みを行う仲間)は、先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く。これは徳川時代の大名の参観交替を擬した行列であり、神輿が全部揃うと見物の所謂練り込みが始まる。全員宮の定紋付き平袖の襦袢を着用し。脚絆・草鞋がけの姿も凛々しく、夫々の所礼を奉納する。即ち、先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる。これに続いて屋台を引出す。屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する。 この練り込みが終ると、以前は三頭の神馬が競馬を行うこと三回を以て全祭礼が終了するのであった。(現在競馬は中止)そして神輿の還御・屋台は合奏しながら夫々の宮に帰る。 なお、子供の祭太鼓も有名である。これも亦練り込み太鼓とも云われ、三社各様式を異にするが、祭礼の華である。 祭礼の起原については詳でない。 赤国神社・沢神社・大川神社・大嶋神社合同の三宅天神馬場での祭礼も賑かである。小畑祭と大同小異。毎年十月九日が例祭日 |
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○白髭神社 所在 豊里村字中小字別所 祭神 仲哀天皇、神功皇后、武内宿弥 縁起 ロ碑によると。本社はもと本村北隅の宮ケ嶽頂上に鎮座、船並に火防の守護神として崇敬せられた。後年、参詣不便の為現在の山麓に遷座した。祭神の武内宿弥とは、明治十六年四月社寺取調の際からか、古くは猿田彦之命と伝えている。(明治十七半社寺明細帳) 宮ケ嶽の地名、天狗の止り松の老木はこれ等に関係があろう。 現在の社殿は、文政二乙卯年四月の改造、境内に梵字を記した塔身あり。 境内小社 ・八坂神社 祭神 素戔嗚尊 由緒不詳 文政二年本社再建の時創祭と記録あり。 ・愛宕神社 祭神 火産霊神 由緒等仝豹 ・山の神 もと原貝より現地に勧請 祭礼 古くは10月15日。作田の高稲場で、後松原の白ひげ馬場で行う。現在は10月16日。 ○武大神社 所在 豊里村字中小字五反 祭神 素戔嗚尊 由緒 不詳 寛政11年再建と伝う。境内に大杉あり、周囲5米30 〇二の宮神社 所在 豊里村字中小字正名 祭神 速玉男之神、伊邪諾神、事解男之神 由緒 一名熊野神社、創立年月不詳、口碑に貞観二年創立、寛文十三丑年紀伊国本宮より熊野神社を勧請し祭祀すと。御神体は、聖観音。 祭礼 例祭は10月16日、武大神と共に行う、武大神には神輿なく御鉾あり、二宮には御鉾なく神輿あり。祭礼音頭は、京都三十三間堂の棟上音頭という。 鳥居 本社は両部鳥居という。真言宗・天台宗に関係ある神社に用いると。 末社 ・蛭子神社 祭神 蛭子犬神 創立天明五巳年 ・大社神社 祭神 大国主命 創立 仝 ・八幡宮社 祭神 譽田別天皇 仝 ・若宮神社 祭神 稚郎子皇子 仝 ・大川御社 祭御 由緒不詳 境外社 ・八幡神社 所在 字中小字作田、祭御 忘紳天皇 ・稲荷紳社 所在 字中小字原貝、祭紳 倉稲魂神 創立 文久二半正月三十日 (資料として、稲荷本宮羽倉伯耆守内神役人の証二通あり。) ○一の宮御社 所庇 豊里村字鍛冶屋小宇佐陀 、。 祭紳 伊那那岐神、速玉男之紳、事解男之神 由緒 創立年月不詳、口碑によれば、貞観二庚辰年造営、又寛文十三癸丑年(延宝元年の棟札ありと。なお当社は元延喜式内佐陀神社たりしも、中古紀伊国熊野紳社を勧請合祀し、社号を一の宮神社と改称すと。 資料 元禄十三年社堂改帳に「一の宮天明紳、右者熊野三社之内本宮権現のながれと申し伝候、然共何にてもゑんぎは無御座候」とあり、叉、元文五庚年申四月仏誕生会の丹波何鹿郡小畑庄鍛冶屋村神記に、当社並に二の宮・三の宮祭祀の記事あり。 延喜武内佐田神社に決定請願の文書あり。 宝物 経筒瓶及び経筒あり。大正七年拝殿改築の際発掘 神像二休 不鮮明で虫食なるも古雅な衣冠姿の像 境外社 ・空山神社 所在 字鍛冶屋小字空山八番地 祭神 弥都波能売神 縁起 不詳 ・秋葉神社 所在 字鍛治屋小字空山七番地 祭神 迦具土神 縁起 不詳 ・三宝荒神(元禄十三年文書)村中に有り、奥津比古神社とも称す。 ・大田神社 祭神は倉稲魂神 もと一の宮境内にあつたが大正15年4月移転して現在荒神の上 ○三の宮神社 所在 豊里村字小西小字中山 祭神 事解男之神、伊弉諾神、速玉男之神 由緒 口碑に云う「往古は同村小西小字古宮に鎮座ありしが、何れの時代にか現在の地に移遷せり」と。叉、元禄十三年社堂改帳によれば、「此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉遷三社其一座と申伝候」とあり。再建貞享三年、改修昭和三年。 末社 ・稲荷神社 所在 字小西小字宮ノ前 祭神 倉稲魂神 由緒 創立不詳、享和三年再建 ・八坂神社 所在 字小西小字荒神下、祭神 健速須佐之男命 由緒 不詳 俗称小西神社又祇園神社 ・秋葉神社 所在 字小西小字宮の前、祭神 迦具土紳 ・大川神社 所在 三の宮境内、祭神 風火金氷土神 由緒 不詳、口碑には往古山頂に祀る後、森ケ下に奉遷、天明二年社殿再建、明治六年現地に移遷とあり。 ○八幡宮社 所在 豊里村字今田小字長源名 祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、武内宿弥 由緒 不詳。本社は惣持院の鎮守、小西、今田立合の宮、往古は結構の宮なりしも、今は大破して昔日の面影を止めずと。 資料 元禄十三年社堂改帳に曰く、「八幡宮、普明山如意輪観音鎮守也。(中略)右神社は小西村今田村立合の宮にて、則境内も面村入組に候」と 伝説口碑 昔、本社に左甚五郎の作と伝える蝉錠あり。時ならぬ季節に蝉の鳴声を発す。人々不思議がり稀代の奇宝として珍重せしが、慶長三年九月。福知山城主小野木縫殿介、丹後国田辺城主(現舞鶴)細川幽斎を攻めんとして出陣の |
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小畑の六左衛門村と里山ねっと 空山の麓に小畑祭りの幟が翻る「六左衛門村」むかし「小畑六左衛門」という面白いユニ−クな人がいたという。 花と民話のふるさと 六左衛門村 花しょうぶ園 村名を拝借した小畑六左衛門さんとは。 天正十五年に生まれた小畑六左衛門は、今の豊里地区の鍛冶屋、中、小西、それに物部地区の新庄併せて、3,329石の豪族であった。巧みなる狂歌で、土地争いを和解させたり、分限者から貧者にものを分けさしたりした。例えば、こうじゃ。あるとき六左衛門爺が野道を通りかかると、二人の農夫が今にも鍬でも振り上げかねない喧嘩をしている。爺が中に入り理由をきくと、土地争いなのだ。爺は二人にこう言った。「大声(大肥え)したる芋なればこせこせ(小畝小畝)言うな。作は上々。」と言って和解させたそうな。 延宝五年六月二十二日 独爺 善宿信士 位九十歳 俗名 小畑六左衛門 |
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小畑六左衛門翁之碑「ポイの餅」 ある日報恩寺(ほうじ)の嫁の里へ行った時「ぼたもち」をごちそうになった。六左衛門はあまりにおいしかったので家でも作ってもらおうと思って「この食べものは何か」と尋ねると「ぼたもちや」と教えてもろうた。 忘れんように帰ろうと思って「ぼたもちぼたもち」ととなえながら帰ったそうな。途中で川があったので「ぽい」ととんでわたった。そのひょうしに忘れてしもうた六左衛門「はてな?」ああそうそう「ポイのもちだったわい」と思い出し「ポイのもち〜〜」と家に帰りついた。 嫁さんに「ポイのもち作れ」と大声でいった。嫁さんは何のことかさっぱりわかりません。仕方なく「ポイのもちは作れんが、ぼたもちならできる」と「ぼたもち」をさし出すと、六左衛門は「そうだこのもちだ」といって大きな口をあけてパクパク食ったそうな |
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「あやべ里山ねっと」 「小畑のヤッコ振り」は元小畑小学校の付近で12時半頃にと聞き、下調査に元豊里西小学校であるここ「あやべ里山ねっと」事務局に尋ねに入った。元小畑村小学校とは当所のことであった。このHPにあるように里山交流研修センタ−として、さまざまな活動を展開する拠点になっている。 現在ホ−ムセンタ−「ケ−ヨ−」の創設者である永井幸喜氏(地元出身者・綾部名誉市民)の寄贈された永井基金(永井賞)を引き継ぎ、農村と都市の交流事業を担う拠点施設「永井山荘」が間もなく完成とのことである |
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とよさとにし つばさがはえるちず 京都府綾部市豊里西地区−小畑町・鍛冶屋町・小西町−(八塚ケ谷の景色) 里山ねっとでいただいた散策マップです「ようこそ、そらいろの大地へ」 このマップ栞にも次の小畑六左衛門民話が集録されていました 「くすくすくす」 小畑の六左衛門さんが買い物やお土産をいっぱい持って、町から帰る途中、日が暮れてきたので宿屋に泊まることにしました。欲張りの宿屋の女将さんは、あの荷物を置いていってくれないかなぁと思いました。「それには食べるとぼけて物忘れをするという、みょうがを食わせるに限る!」もっと欲張りの宿屋の主が言いました。 女将さんは早速裏の畑から取ってきた、みょうがを、お汁やおかず、そしてご飯の中にまでもたくさん入れ、六左衛門さんに食べさせました。すっかりのぼせて、さっさと床についた六左衛門さん。次の日「早く買い物やお土産を届けなければ」と慌てて宿を飛び出してゆきました。それを見た女将さんは荷物を忘れていったに違いないと部屋を探しに探しましたが何一つ残っていません。 そんなはずはないがなぁと考えていた主がやがて思い出したように言いました。「忘れた忘れた大変なものを忘れた。夕べの宿賃もらうの忘れた。」宿屋の夫婦もみょうがをたくさん食べていたのです!六左衛門さんのほうは荷物こそは忘れなかったけれど、宿賃を払うのを忘れてしまっていたのでした。 1587年(天正15年)おっちょこちょいで争いごとでもユーモアに変える力を持った小畑六左衛門さんは、この豊里地区に生まれました。笑うことによって幸せな空気が創られることを知っていた六左衛門さん。その数々のお話、生き生きした景色は、時代を超えて私たちまでも幸せにしてくれるのです。 |
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小畑三社祭 やっこ振り 三社のお神輿巡行 | ||||||||||
小畑一之宮神社本殿前の御輿。これから「小畑三社祭り」出動の待機中 | 集まってこられた氏子のみなさん | 長い石段は危険なのか、本殿のよこの坂道から御輿の出発 | 小西町の三之宮神社から出た御輿祭列の一行と合流 | 一之宮神社、三之宮神社の祭列が続く | ||||||
小畑の馬場まで一之宮神社、三之宮神社の御輿を中心に祭列巡行 その行列を「シグルマ」と称し、神木・金弊・木鉾・御旗を持ち、20〜40名の壮者が袴の股立をとり、鉢巻を締め、白張に身を固めて神輿を担ぎ、獅子・鉾などが前後して続く 二連の御輿の前後に正装した行列、子供たちが続く |
ヤッコ振りの会場に到着 | 小畑の馬場広場に御輿が入る | 北にある二之宮神社の御輿も到着 | |||||||
三社のお神輿祭礼 | ||||||||||
神輿や子供太鼓の広場を見下ろす小高い丘(忠魂碑)に、祭列で運ばれてきた矛・御旗が立てられる | 若者に担がれ屋台が到着 | 一之宮、二之宮、三之宮の三社の御輿が勢揃い | 祭壇が設けられ献餞が並べられる | 三神社の総代などが一列に並ぶ前で宮司のお祓い、祝詞が行われる | ||||||
小畑のこども太鼓 あやべ太鼓など当市の各地に子供太鼓が盛んになっているが、この小畑太鼓のリズムもまた一味異なる。地元の方が是非後世に残すようしっかり子供達に引き継ぎたいと言っておられる | ||||||||||
行列になって次々太鼓を叩いていく。側面でも太鼓を打っている 三社の子供太鼓が3列になって太鼓をたたく。 みな一生懸命で上手に叩いている |
中学生達は笛を吹いてもり立てている | |||||||||
小畑祭こども太鼓。太鼓も笛もしっかり揃っている。我が子の晴れ姿をカメラにおさめるお母さんもいる | 子供たちの元気がすばらしい。皆行儀が良い | 小さな子供も頑張って叩いている | 記念写真を撮っている神社グル−プもある | 突如「ヤッコ振り」の中鳥毛を二本両肩に載せた若者が走るパフォ−マンス | ||||||
屋台の引き回し ヤッコふり 槍の投げ渡し 先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く |
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やっこふり | 三社の屋台が並ぶ。一之宮神社から「奴振り」を披露 | 屋台を左右から揺さぶり傾ける、壊れないのか心配する | 先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大・中鳥毛を打振って供し・・ | 屋台の飾りは「野菜で作った狩猟風景」 サツマイモの馬に乗った騎馬武者、手足は莢豆などで出来ている。狩られる獣たちもジャガイモ、ニンジン・・・で作られている |
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二之宮神社の「やっこ振り」 先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中・大鳥毛各三名宛交替で、或いは高く或いは低く掛声勇ましく振り回す。俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異なる |
屋台を両側から手を掛けて大きく傾けゆさぶる | こちらの屋台の飾り物は、何と「まったけ」毎年採れた立派な「松茸」がにょきにょき活けてあるあるという | 屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く者之に続く。この笛・鉦・大鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い、屋台は前進する | 三之宮神社の「やっこ振り」 三社とも演出の趣向や年齢層など違って面白い |
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Q:四方續夫(綾部史談会古文書研究会)さま 小畑やっこ振り、三之宮神社の屋台に掛けられていた後ろ幕です、読んでください(添付写真参照) 文久三葵亥仲春寫 干 年七十二 (花押印) としか読めません。宜しくお願いいたします A:四方續夫綾部の文化財を守る会事務局長より 小畑の屋台の龍の絵に有ったものですね。之は山家藩お抱え絵師の本名「長谷川素后(はせがわそごう)が文久三(1863年)発亥(みずのとい年)仲春(ちゅうゅしゅんと云う字(あざな)描 干O(其時)Oは候(そうろうの崩し文字)年72歳でそうろう(72歳でありました。長谷川をぬいて)素后と署名してあるのです。 この人は多くの掛け軸や屏風を描いた人です。私の書いた広小路羽室家の展示では長谷川素后の軸屏風が目立つ。と書いています。200円払い、是非3回ぐらい見ると其の趣がわかります。小生今日も、史談会の後、羽室功一氏、近澤館長の案内で又、見ました。後半に壷や皿等を入れ替えられるので又見ます |
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三之宮神社の屋台飾りの主人公は「幸せ家族の人形たち」 | 三之宮神社屋台の後ろ幕を飾る「龍の墨絵」 屋台についている村人が古いものだと説明してくれた |
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三社屋台の丘のぼり 三社の御輿の並ぶ広場(小畑馬場)を見下ろす丘(忠魂碑前)に待機する「鉾・御旗」を目指して「屋台」が登っていく | ||||||||||
両手を翼のように広げ、片足立ちする「ヤッコ振り」の演出 | 小畑の中心地ロ−タリ−(小畑馬場)から、大勢の見物客が声援をおくる | なんと丘の斜面を登りながら仲鳥毛を回し、投げて引き継いでいく | 広場を見下ろす丘(忠魂碑前)に待機する「鉾・御旗 」を目指して「屋台」が登っていく |
街道では次の屋台が大きく左右に揺られ人目を惹きつけている | ||||||
丘の上に増えていく鉾・御旗・屋台の人々 | 次の神社の「やっこ振り」の丘登りの演技が進む | 中鳥毛を回しながら高く投あげ次々に引き継いでいく | 重い屋台を先綱で引っ張り、後押しして丘を登っていく | 丘に登りついた屋台 | ||||||
このあと各町区を巡行に御輿や屋台が帰って行く 近くにある丹の国荘老人ホ−ム(うづいの)に慰問に向かう屋台の行列も見かけた |
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丘から降りてくる人々 | 丘の上で順番待ちの屋台 | 屋台の下りも大変だ |