2006 諏訪神社祭り 取材調査と 本祭り

諏訪神社祭り取材準備  新田常任幹事より10月15日午前に行われる諏訪神社祭(物部町)の資料を頂きましたので取材の下見に行ってきました。現地では久木康弘さんから練込みのコ−ス、時間などの説明をいただきました。
例祭日:今年は10月14〜15日
宵宮:10月14日夕刻、社頭で宵宮の祭典を執行、終わって宮川町のお旅所まで宮遷しを奉仕、お旅所祭りを執行後本宮発興地点まで巡行
本祭:15日の本祭当日は、早朝本社で宮司が例祭の式典を執行後、祭列組供奉の人達が練込みの発興地点まで行列する。この行列の囃しが「川渡り」という軽快な囃しである。屋台は前夜のうちにここに運ばれ、お旅所として鎮座されている。いよいよ練込み開始の柝が打たれると、先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交代の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘、台傘、大鳥毛、中鳥毛と続き、奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り回しながら進み、最後は屋台である。提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8〜10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される又この曲とは別に軽快なリズムの「しぐるま」という曲があり、これは余興的に途中休憩場所等で囃される。こうして練込みは三時間程を要して下市の町を練り、諏訪神社へ還幸されてお神楽は終わる。午後は獅子舞が氏子の各戸を廻る。(物部村誌より)    
諏訪神社由来  物部城址 上原氏の居城
源の頼朝は平氏を滅ぼすや国々に守護地頭を任じて幕府の支配下に置いたが、建久四年(1193)物部郷の地頭として頼朝の家来信濃諏訪神党の上原成政(上原氏由緒書では右エ門丞景正)が来て、初め高屋山に城を築いたが後にここに築城し、鎌倉時代以来の在地豪族として、戦国時代丹波の守護代となって威を振るった。
元亀二年(1571)上原右エ門小輔の時、氷上郡黒井の城主、赤井直政に攻められて落城した。城山の南麓の諏訪神社は上原氏が故郷諏訪から勧請した氏神である。諏訪神社
         
物部町の「諏訪神社」本殿  諏訪神社境内には、稲荷神社、天満宮社、厄善神社がならぶ   諏訪神社前右には正慶山・常福寺がある、向かいは物部小学校 清正公大神神社が寺の右にある    
 なお物部地区西坂町にはもう一つ諏訪神社がある。 http://star.ap.teacup.com/ayabebunnkazai/156.html
2006/6/24「延喜式内社・高蔵神社と諏訪神社」 綾部の文化財 
諏訪神社由緒縁起
 京都府綾部市(物部地区)西坂町にあるこの「諏訪神社」は源頼朝の命で建久4年(1193)に信州上田城主の上原右ェ門丞景正が丹波の国何鹿郡(いかるがぐん)の地頭職に任ぜられ、物部町高尾に城郭を築き、信州一ノ宮・諏訪明神の分霊を祀ってこの「諏訪神社」を建立。何鹿郡では「地頭職」の名前はこの上原氏のみ判明している。御祭神は「建御名富神と姫神八坂刀売神」であり、境内社は稲荷神社もあり、十月十七日の秋祭りには「高蔵神社の神輿」が立ち寄り、宮司、自治会長等が参拝する
諏訪神社祭り   秋晴れの15日(日)8時前に物部町の「諏訪神社」に到着。氏子の人々が続々集まってきて、練り込み行列の準備が整えられていく。南田物部地区連合自治会長より「上原氏について」「諏訪神社・大祭由来」の資料をいただく。「片山家文書」が考証に引用されていたので、研究家の綾部史談会片山会員にも提供することの了解を求める   
         
祭りの飾りつけされた「諏訪神社」本殿  赤い旗が立てられ子供達も集まってきた   たき火にあたる子供達。傘鉾などお練り行列の先頭集団が並び始める   鉾屋台の台車と準備中の氏子の皆さん   間もなく出発の8時  
         
8時に諏訪神社を出発。練込行列のコ−スを昨日の宵宮巡行で御旅所に遷宮した屋台を迎えに行く   諏訪神社を出る一行   太鼓、鉦、笛を鳴らしなから進む   街中を行く   傘鉾を先頭に犀川に架かる橋をわたり、その先で折り返して再び犀川の上流をわたる  
諏訪神社 (物部町荒山四番地の一に鎮座)
 創祀年月日は不詳であるが、建久年中に創祀されたと考えられる。安永八(1779)己寅年に再建。
 信州上田の城主上原右ヱ門丞景正がその一族を率いて丹波何鹿部六万石の領地を与えられ、建久四年(1193)物部の地に入った。上原氏は物部に入るとまずほぼ中央の小高い山、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一帯を陣屋とした。斯くして、地頭として物部に入った上原氏は丹波の経営に着手したが、まず何よりも守護神として故郷の信州一の宮諏訪大明神を勧請し、須波伎仙人隠れの山麓に祀った。こうして、この地帯を由良川に向けて南流する川を「犀川」と名付けたと言われている。
 その後、文明年間(1469室町時代)この陣屋は高屋山の西方五町の物部盆地中央に当る荒山(城山)に移され、守護神諏訪神社もその南麓に移し祀られて今日に及んでいる。
 当社には貴重な古文書として、上原氏一族の上原神六が病気平他の願かけをし、それが奇しくも大神の神徳により著しく叶えられた事を喜び感謝して神社に納めた次の一文の写しが残っている。『上原神六、永正十六己卯年(1510)に当社筆頭氏子となり諏訪神社の神威神徳をお讃えしていたが、日ごろは心ならずも氏神へのお参りも怠ることもある日々であった。ところが思いかけず痛気にかかってしまい毎日悩み苦しむこととなった。そこで諏訪神社の御前に参詣し願をかけた。それは(願いをお叶えいただく時は、お礼のため臨時のお祭りをもち、今日のように尾頭つきの魚、猿楽その他色々と神事に必要なものをお供えいたします。どうか施主の儀式に応えて下さって、病患を始め一切の枉事災難を祓い除け給わんことを)と一途にお祈り申し上げたところ、大神のご威光の尊さは全く計るべくもなく、願を読み終わらぬうちに卯の年天文廿二年(1543)病気たちまち快方に向かい、息災延命、更に家業繁栄、家運隆昌することとなった。このことへのお礼と感謝の気持ちを込めて翌年に願済ましのお祭りを営んだ。そこでそのしるしにと、願文と祭旨を書き止める。天文廿三甲辰年二月二十日、上原神六拝」とある。願文は長いため特に前半部を省いた。

諏訪神社祭り
例祭日:今年は10月14〜15日
宵宮:10月14日夕刻、社頭で宵宮の祭典を執行、終わって宮川町のお旅所まで宮遷しを奉仕、お旅所祭りを執行後本宮発興地点まで巡行
本祭:15日の本祭当日は、早朝本社で宮司が例祭の式典を執行後、祭列組供奉の人達が練込みの発興地点まで行列する。この行列の囃しが「川渡り」という軽快な囃しである。屋台は前夜のうちにここに運ばれ、お旅所として鎮座されている。いよいよ練込み開始の柝が打たれると、先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交代の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘、台傘、大鳥毛、中鳥毛と続き、奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り回しながら進み、最後は屋台である。提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8〜10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される又この曲とは別に軽快なリズムの「しぐるま」という曲があり、これは余興的に途中休憩場所等で囃される。こうして練込みは三時間程を要して下市の町を練り、諏訪神社へ還幸されてお神楽は終わる。午後は獅子舞が氏子の各戸を廻る。

 上原氏によって勧請された諏訪神社であったが、今は下市の総氏神として住民の篤い尊崇を集め、こうして祭礼が行われる様になった。戦中戦後の一時期は取り止めとなり、祭礼の形も忘れられようとしていたのを、再び盛時のように復活できたのは住民の厚い崇敬の念と伝統保持の熱意によるものである。

〈境内末社)
○天満宮 御祭神 右大臣菅原道真公 学問の神 諸道芸能の神 文学詩歌の神として崇敬篤い。7月24日の例祭日には、町を挙げての神賑行事が催され、近郷近在の子供連れの人々が夏の夜祭りに参詣し、夜店も多くたち大勢の人で賑わう。
○厄善神社 厄除の霊験あらたかであり、1月18日の例祭日には古くから近郷近在の人々の参詣で賑わう。特に早朝参りにはお蔭が厚いと言われ早暁からの参拝が多い。また当日は講中の人達の奉仕によって甘酒の接待かある。
○稲荷神社 厄善神社社殿に合祀されていたが平成7年12月に新に社殿を造り、分祀して祀ることとなった。   
物部城上原氏について
 上原氏のことは、当地にその記録を失し、全容がわからないといったほうがよい。物部古城記によれば「建久四年信州上田の城主上原右ヱ門丞景正、源頼朝に従い其の命によって、丹波国何鹿部を賜い物部村に居往す」(物部村史)そして大永六年(1526)(綾部市史)大永五年(物部村史梗概)赤井氏の侵略を受けて潰滅的な打撃を被り、結局元亀二年(1571)赤井直正によって亡されたようで(梗概・市史)378年に亘って物部を拠所としていたようである。
 その存在と、行動を確かめ得るものは、わずかに二つの資料にすぎない。
・「楞厳寺縁起」市内館町楞厳寺蔵
・「織田信長知行安堵状」「渡邊家文書」
 で@について、綾部市史は「位田の乱」として何鹿地方で起っている大規模な争乱を伝えている。
 以上に次の資料を加え、上原氏解明を一歩進めたいというのが、本稿の趣旨である。
 その一つは、丹後資料館発表の「南北朝時代の丹波・丹後」に集録された片山家文書である。
 L片山彦三郎高親申軍忠事
建武三、京都御合戦之時、自正月十六日、至于同甘七日晦日、属御手致所々合戦。□□州河原御合戦之時、家子竹鼻平四郎親康、被疵(左眉射疵)畢。同甘九日(左膝口切疵)、甘八日一條河原口夜攻仕候畢。此等次第同所合戦之間志賀弥大郎、物部孫神太所令見及也。然早賜御證判、以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
 建武四年十月十三日 承了 花押 平高親 上杉朝定代官力 (片山家文書)

 Q片山彦三郎高親申軍忠事
去六月上旬、山門西坂本御合戦之時、同九日責上雲母坂、一城戸口致昼夜忠勤畢。同十九日致散々合戦處、家子竹鼻平四郎親康両所被疵(左手股右膝口射疵)播差、木三未弘被疵(右ノモモ射疵)是等子細吉見小三郎、物部孫神太同所合戦之間、令存知者也。然早為後證、可下賜御判也之旨相存候。以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
 建武三年 六月日 平 高親
 進上御奉行所 承了 花押 仁木頼章

 わたしは、この二葉の文書に出てくる物部孫神太を物部城上原氏、志賀弥太郎を吾雀荘の家族志賀氏であるうと推定する。しかし、直接それを実証する文書を志賀氏も上原氏も亡失してしまっている。

 傍証であるが、これより二十五年後の「延文五年(1360)雀部荘で、何鹿部の志賀勘解由左工門らが濫妨したので足利義詮が停止させ、神主の奉相季に知行させたごという記事がある。(史料綜覧)
 孫神大の子孫、元秀(紀伊守)が「物部神六」、「奉六」と公文書に記名している。おそらく孫神太は「マゴシンタ」なのであろう。(後参照)
 次に当時の状況である。八田郷は足利尊氏自身と、その母上杉氏誕生の地であって、尊氏としては、ここを源家再興の旗上げの中心と、深く心中に期していた地である。
 上原氏の拠る物部郷は、その西に境を接し、吾雀荘はその物部の北隣の仲なのである。建久四年、頼朝の家人として入部したと伝える上原氏に尊氏の行動が波及しないわけがない。ましてや、当何鹿部全体が大きく揺れ動いたことにおいておやである。
 「建武四年十月二十八日上杉朝定奉引付奉書」(八坂神社文書)
 この奉書の宛先が上原孫神太 志賀弥太郎とあることから、今西 明氏は、両名は上杉朝定の代官に従う被官(家来)となっているのではないかとしておられる。京都大 今西明「室町戦国期の丹波守護と土豪」)
 注:今谷氏は、後部市史(資料編)安国寺文書:「暦応元年十月五日 某宛行状」の某花押が、本稿「建武四年十月十三日片山彦三郎軍忠状承了の花押(朝定代官カ?)と一致することから推論している。

 次にLQの二葉の文書の内容が、上原氏の行動を明記するものであるから、それについて記す。
 Lこの戦いというのは、義貞が奥州にいる北畠顕宗と応じて、尊氏を挟撃しようとするが、足柄・箱根の戦いに敗れて京に追く。義貞を追った尊氏直義軍は、応じて播磨から京に攻め入る赤松軍と共同したので、後醍醐帝は難を叡山に避けた。正月十一日尊氏も京に入るが、尊氏を追ってきた北畠顕宗も、十三日近江に入ってきたので、南朝方は勢いをもりかえす。こうして文面にあるように、一月十六日以後は両軍京都各所で激しく渡り合った。特に東山から賀茂河原一帯に広がった戦いで旗色を悪くした尊氏方は、文面の一月二十七日から晦日にかけて、崩れたち、殿りは京にいるが、尊氏自身は二十七日篠村に退く、この戦いに「属御手致所々合戦」とあるように、片山、志賀、物部の面々は、上杉朝定の手に属していた。
 尊氏に踏み止まるひまを与えず急追されるので二月三日播磨に移った。ここで尊氏は軍崩壊の危機の中、仁木頼章に命じて、再度丹波の兵の集結を令する。丹波の土豪連は敗戦とともにす早く自分の村に逃げかえっているのである。敗戦によって兵糧の問題があったのだと思う。

仁木頼章奉軍勢催促状
新田右衛門佐義貞、己雖被追悼猶以一族以下与党人等、為誅伐可令発向于京都也。率一族不廻日時、馳参于井原岩屋。可致合戦之忠於賞者可依功之由候也。仍執達如件。
 建武三年二月三日 伊賀守(仁木頼章) 花押

和知片山人々御中
 二月三日は前述の如く、南朝方の追撃をかわし切れず、篠村の根拠地を捨てて播磨に移った日で、尊氏が崩壊を支えようとして必死の様子がうかがえる。時を与えないのが軍略、南朝方の鋭い追撃を受けて、丹波の兵を勤かすひまもなく、十二日、兵庫から舟で九州に向けて再起の土地を捜すわけで、軍潰走の中、右状を発し、ひとり丹波に踏み留まり尊氏を支える仁木頼章は、尊氏の命令を奉じて丹波の軍事指揮権を揮っているのだから、これによって守護権が確立することになると考えてよい。
 文に命じている軍の集結地の「井原岩屋」は、播磨境の氷上郡井原荘で、荘内に岩屋があり、石龕寺は、尊氏の御教書を多く伝存する。この寺がその策源地であった公算が大きい。当時後醍醐帝領であった。後年  
         
御旅所まで出迎えの一行、下市の練込コ−スを行く   物部町の繁華街   太鼓をたたいて子供達が迎えてくれた。宵宮巡行で宮遷した屋台が見える   大勢の子供達が代わる代わる楽しそうに太鼓を叩いている    
 ここが発祥の地か飾り付けられた屋台が置かれている。物部の信号機のある五叉路はこの先の由。この道路は物部中心地に向かう道路で、交通の激しい府道:綾部−大江線、志賀郷、八田線からの西に向かう主要町内道路に当たる

飾り付けられた屋台、赤い獅子舞の頭が置かれ、諏訪祠と染め抜かれた幕がかかり、おなじく諏訪祠の提灯が下がっている
         
9時の練込巡行出発を前に準備中   子供太鼓も楽しそう
次々に叩いていく
練込出陣前の大人による力強い太鼓    
  いよいよ練込み開始の柝が打たれると、先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交代の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘、台傘、大鳥毛、中鳥毛と続き、奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り回しながら進み、最後は屋台である。提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8〜10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される
 太鼓が終わり拍子木が打たれ、いよいよ練り込みが開始された   
         
ずいぶん重い大鳥毛を膝を回しながら回す。バランスを取るのが難しそうだ   見物客が大勢詰めかけている   屋台を大勢の人が引き綱で惹いている。小さな木の車輪が付けてあるが、舵取りは人の手で進む向きを変えていく   諏訪神社下に真っ直ぐ通じる、古い物部街道筋を行く練り込み   交替しながら大鳥毛、中鳥毛を回して演技  
        提灯、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で締め太鼓、鉦4人笛8〜10人が続く。曲は京都祇園祭の囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の止まる要所毎に奏される.。
鉦は屋台の上部から細い紐でつるされており、それを左手に引きよせて槌で叩いている
  
広い交差点で子供太鼓の披露   大人が力強く打つ太鼓も響き渡る   屋台の出発前のお囃子の演奏。屋台の後ろに据えられた太鼓を力強く打つ  
         
屋台の後ろを行く囃子方   真っ直ぐ西に行くと諏訪神社下に出る旧物部街道であるが、巡行コ−スは南に折れ、広い通りを道一杯に広がって「犀川」の橋に向かう   堤防にコスモスの咲く「犀川」の橋で休憩、両橋詰めの接待所で飲み物やお茶菓子を頂きながら頑張る練込   上流側の犀川の橋を渡る屋台   犀川にかかる下流側の橋を諏訪神社に向かいわたる剣鉾、秋葉神社御旗。屋台の渡っている上流側の橋と見合うかたちになる  
         
秋葉神社御旗が橋を渡っていく 府道に出る手前で折り返し、狭い隘路を諏訪神社に向かう屋台 犀川に掛かる橋を登り勾配で勢いを付けて曳く   おっとっと今度は下り勾配、暴走すると大変。慎重に後ろに引き戻しながら進む。ここで11時半になる。諏訪神社まであともう少し    
次の「小畑のヤッコ振り」取材のため早手回しに諏訪神社前に止めた車を、府道沿いの久木さん宅駐車場に移動させた(練込巡行コ−スは車が通行禁止になる、しかし神社の奧から出られる道も存在するいうことではあった)諏訪神社前広場には「タコヤキ」など屋台店が数店開店準備中であった