2006 たったのこんぴらさん  義人の出奔・出迎えルート犬越峠?考

綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長からたったのこんぴらさん」の取材に時間があれば来てみればのお誘いをもらった。10時すぎに行ったが擦れ違いで帰られたあとで、今さっきまでここに川端先生と一緒に居られたとのことであった。石原理事の姿も見えた。
綾部の南を東西に走る国道27号線を山家で北に折れると、府道1号線で小浜に向かう上林街道がある。中上林の信号のある十倉交差点を東に入ると、由良川の支流である上林川もまた蛇行してこの「
たった」に回り込み流れている。武吉、佃、忠の3村の頭文字から「タ・ツ・タ」と明治初年に付けられた村名だとのこと    
         
冬枯れの農村風景の中を走る。家が建ち並ぶ辺りに幟が見えた。この先は佃町で府道は行き止まり、和知町へは山峠があり抜けられない   田畑の畦道を三々五々人々が歩いてくる   農道を歩いて  
府道の曲がり角を回ると路肩に車が並んで駐車してあり、私もその最後列に駐車する。先を歩いている年配の人々に「たったのこんぴらさん」に行かれるのかと尋ねるとそうだと云われる。しばらく農道を歩いていくと、  人が多くなってきた。道ばたの電柱につけられた拡声器から、威勢の良い「こんぴらふねふね・・」が聞こえてきた。エンドレスの終わりのないメロデイだ。 金毘羅舟々 追い手に帆掛けて しゅらしゅしゅしゅ 回れば四国 讃州那珂の郷 象頭山金毘羅 大権現 一度廻れば・・   
         
 前方を人が歩いて行かれる 人が多くなってきた。 まっすぐ行くと農道に屋台店が並んでいるところに来た   右手に田んぼがあり、その向こう側の民家に白い幕がひかれ、人が大勢集まっていた  
 建田のこんぴらさん 井上 益一氏 綾部の文化財を守る会会報第12号、昭和52年1月
 すでに「綾部市史」「丹の国綾部」等に紹介されているのでくどいように思うけれど、かわった伝統行事のことで今一度記してみたいと思う。
 建田とは口上林地区内、武吉・佃・忠の頭字タッタをとって建田の字をあて明治初年にできた村名である。
そこに伝わるこんぴら信仰は全員が講員で、正しくは宝永講という。宝永六年(1709)武吉村源兵衛宅よりはじまるといい次のようないわれがある
関ケ原の合戦に西軍に組した藤懸永勝は他の部将と共に田辺城(細川氏)を攻めたかどにより、所領一万三千石を六千石に減ぜられ慶長六年上林谷に入部、石橋城山の麓に陣屋を構えた。其の後子孫を次々に分家させ、禄高は四千石になり財政は逼迫、その上度々の大水害にもかかわらず年貢米はきびしく取立てた。そのため領民は苦しみあえぎ、減免を訴えて出た代表の武吉村、佃村の庄屋年寄などはきびしく処分された。
 たまりかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者三人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
 三人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり、近路を教えられたり大井川の渡も川止め直前に都合よく渡り領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
 純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものとし願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという

 この講は三町区を輪番にまわり、町区内の組も順をきめているが、神を祀る家つまり講元はその町区の公選により定める。その家の一室を社殿とし一年間、床の間に金刀比羅大権現をまつるのである。毎月十日は例祭、十一月十日は大祭で午後三時頃、講員の遙拝式、午後四時頃、講元交代の戸渡し式を行う。これには昔から引ついできた御正体のおさめられた木箱を宮司から当年の講元へ、それから次年度の請元へ手渡すのである。
 次に膳にゆずの実大根赤とうがらし等のきったものをのせ、それを肴に、ひらわんのふたに神酒をつぎいただいて、当年自治会長講元、次年自治会長講元の順で、それぞれ挨拶があり終る。次に次年度講元の家へ宮司を先頭に行列をととのえ徒歩で行き遷座式を行う

昔は遠方からの参拝者が宿泊したり上講したりで、その世話など大変なことだったが、今はだんだん簡単になった。それでも参拝者は随分多く、進学就職、交通安全、安産祈願等をする人々が多く時代を反映しているようだ。みやげ物や日用品、農具等を売る店も多かったが今は少くなった。こんぴらさんといえば、子ども心に氏神祭よりもはるかに楽しいものであった。
 明治二十年本社讃岐金刀比羅宮の崇敬講社に入り毎年はるばる代参をおくり、地元では式ごとに宝永の頃の気持にかえりうやまって遙拝を行う

時うつり事去り、考え方にも色々な人があるだろう。然し一揆に発したとはいえ伝統的な信仰行事の根強さは、現代人の生活と感情から幾分のゆれはあっても簡単にくずれ去るものではなかろう。筆者は関係町区の自治会長や係として前後七回にわたる戸渡しの式に連なり、そうした感を強く強くいだいたものである。
 あとになったが、大祭当日、於与岐町吉崎五左ヱ門家の当主及び和知町大簾自治会代表をお招きし心からのおもてなしをするのは、かつて江戸行きに際し、一方ならぬ協力を願ったことに対する感謝の意味である。戸渡し儀式に、なまのゆずの実大根とうがらし等を肴に用いるのは、江戸行きを無事に終え帰郷したのを喜び迎えた時のささやかなさかもりをあらわすものという。
 武吉、佃等の庄屋年寄等が処分されていることの詳細は、残念ながら今のところ研究も不十分であり、又他の都合もあって公表はさしひかえねばならない   
         
賑わう「建田(たった)の金比羅宮宝永講秋季大祭
家の軒に鈴・綱が下げられている。参拝者が列を作っている  
すぐ隣でお神籤やお守りが売られている 家のお守りを求める年配者。300年前の昔から、このような祭事に詣ってお守りやお札を求め、持ち帰って家に飾り、家内安全などを願ったのだと思う   洗心は水桶を並べ、手ぬぐいを上からぶら下げたもの。毎年順繰りで、武吉・佃・忠の3町の普通の民家の一室が祭殿になるために工夫された形であろう  
         
絶え間ないお参りの人々。素朴な田舎のお祭りに300年間つづく人々の信仰、情熱を感じる   祭殿が設けられた母屋のすぐ外の離れ家が「こんぴら大祭福引き会場」 ここも賑わっている    こんぴら大祭福引き会場 農道に並ぶ屋台テント村に戻り、「こんぴらうどん」を食べる   肩車をするお父さん。子供の頃が懐かしい  
駐車した府道からまっすぐ下ってきた道に屋台店が並んでいた。路肩は畦道で里芋が植えられているのが見える。祭殿を祀った民家は、この田畑の向こう側にある   
         
 大判焼き、焼きそば きれいな小物やおもちゃが置かれている。子供を抱いた家族連れ   おみやげ屋さん   たこやき屋、おもちゃやさん  
 300年間続く建田の金比羅宮宝永講秋季大祭 綾部の文化財を守る会事務局長:四方續夫氏
 
特別祈願を受けられるご夫婦  
 京都府綾部市(もと何鹿郡いかるがぐん)武吉町浦入14番地の浦入源伍氏宅で11月10日(金)「建田(たった)の金比羅宮宝永講秋季大祭」が催された。これは今から300年の昔、いわゆる天下分け目の合戦の後遺症で圧政に耐えられず、当時約200戸、武吉(たけよし)・佃(つくだ)・忠(ただ)村の地元民は、子孫と村の将来を考え窮状打破するため生命の危険を冒し、江戸幕府へ直訴(実情を訴える、直訴者は通常断罪)することを決意し、当時唯一集まりが許される神仏の崇敬講に着目し、金比羅講に結集、協議した。直訴には各村から一人ずつ3名の若者が選ばれ、内一人は母子二人暮らしであったが、息子の壮途に憂いを残さないため母親は自決した。3人はこのような村人の信心、あらたかな神の加護、窮状に共感をえて於与岐(およぎ)の素封家:吉崎氏より旅費の供与を受け直訴に出発し、すぐ様、追跡にあったが多くの人々や神仏に助けられ、無事に江戸幕府へ直訴を成し遂げた。
このことは当時では全国的にもまれな幸運な成功であった。

3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで、大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い三人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで三人の偉業を子々孫々に顕彰するため、併せて神の加護を感謝して,今後1千年間金比羅講を続けると約束した。
   
3時からの秋季大祭終了式に
参加する3ヶ町の代表講員
 
「戸渡しの儀式」に参加する役員,
いわれある大根、柚子、唐辛子
の三種を使った膳
 

 今年は11月9日(木)午後5時秋季大祭前夜祭11月10(金)午前6時秋季大祭・遥拝式、それから特別祈願拝(これは、家の中に入り久保宮司様による御祓いを受ける)志納料は各自の自由だが一人千円から、1万円もお供えされる人もある諭旨)午後3時頃秋季大祭終了報告会、その後、佃町からの出迎えを受け「戸渡しの儀式」をえて佃町の民家の講元へ、そこで「遷座式」が行なわれ、平成18年11日10日から翌年の11月10日まで毎月10日に月礼祭が行なわれる。そして、平成19年11月10日には忠町へ、平成20年11月10日には再び武吉町の民家へ遷座される。この浦入家の裏庭には「天正八年(1580)正月廿八日 奉斎 堀 土佐守藤原宗光 」の石碑と巨大な古木の梨の木があった。浦入の地名を姓に持つこの浦入氏は元地方の豪族であったと思慮する。参拝者は昔、数千人だった諭旨、だが今でも1,700〜1,800名参拝される。当会の会員吉美地区里町の木下清氏も参拝されたのに出会った。駐車場も地元の消防団の方々の案内で安心で無料です    
周辺の地理考 : 3人の義人が出奔し、また村人が迎えに出たルートは「犬越峠」では?    
         
今年の「たったのこんぴらさん」が行われた近くの武吉町公民館前で刈り込みをするコンバイン。向かいの鉢伏山の上にパラボラ電波塔が目立つ
武吉町公民館より3.4Km西南方向 開けた所に全望できる  
 武吉町公民館前から撮影したパラボラ電波塔
綾部市と和知町の境に鉢伏山」という「パラボラ反射鏡」が鈴なりに乗ったランドマ−ク(陸標)が見える。寺山からも良く見える。中丹広域農道の福知山から高速舞鶴道の陸橋をくぐった当たりからも進行方向真正面に見え、遠く綾部市境を意識させてくれる。さらに
十倉交差点より 4.7Km西南方向 進行方向正面
和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える
 京都に向かう由良川沿いの国道27号線、山家交差点付近から撮影。山家交差点より 5.9Km 西方向 進行方向正面右寄り
この「鉢伏山」のすぐ左下に「犬越峠」があり、府道481号(上林−和知)線(未開通)にあたる。
ホ−ムペ−ジ「電波塔のミステリ−鉢伏山(625.7m)を現地確認」
武吉〜佃町を山に向かって進むとすぐに短い林道となる。終点から峠道が通じており急坂もなく手入れされた峠道である
稜線に出ると送電線塔があり、少しこの稜線を登ると「犬越峠」に着く。「之より北、丹波国何鹿郡」の道標が立っている   といきなり開けた展望のある林道に飛び出す。目の前に「林道:明石線完成記念碑、荒巻知事」の石碑が建つ公園がある。和知側は林道や電波塔、送電線鉄塔巡視路(車道)が縦横に走り開けている。まるで裏庭から表座敷に飛び出したような気分を味わう
上記から見ると、武吉・佃から山越えで江戸に向かうときに宿を借りたという「大廉」に通じる由良川に出られる。その距離は、直線距離にして7Kmほどで、昔の人の健脚ぶりから考えると非常に近いといえる。昔は山の向こうに京都に通じる街道があるの感覚だったのではなかろうか  
 たったのこんぴらさん」が行われている村々に通じる犬越峠」の近くにある、パラボラ電波塔の「鉢伏山は、和知稲継橋より 3.8Km 北方向 綾部に向かって右斜めに良く見える    たったのこんぴらさん」で府道沿いの交通・駐車管理を勤められていた若い消防団員のお二人に「犬越峠」まで行ったことがありますかと聞くと、「昔は登ったと聞くが現在はない。自分も行っていない」と云われたのには失望した。
 この祭事の伝承となった舞台は「
弥仙詣:黒石峠」と「江戸へ出国・和知大廉泊:犬越峠」「国境いなば境への出迎えと離別:犬越峠」と峠道経由なしには考えられないと思う。今は車で行動し、物事を考えがちであるが、祖先の行動をせめて村境までは実体験していて欲しいと思う     
 400mm望遠レンズで遠方より目立つ「鉢伏山のパラボラ電波塔」を撮りにGPSをつけて車でまわった。「武吉公民館」までしか行かなかったが、「犬越峠」に通じる「佃」の林道終点まで入るともっと良い地図になったと思う。
なお「釜の輪」の三角点「上滝ノ尾」の近くを通る「古峠」から、山家・谷藩主の庇護があったという「聖権現・日前(ひのくま)神社」に通じる山道もあり山家の広瀬町に出られる。
上滝ノ尾」から鉢伏山の少し南まで高圧送電線の走る三角点「奥山」にいたる尾根がある。これは「釜の輪川」の上流にある「乙見渓流荘」の先に続く頭上を高圧線が横切る林道があるが尾根ちがいになる。さらに和知に出るにはもう一山・奥山の由良川まで続く稜線を越えなければならない。
追っ手を逃れての江戸への直訴道中、未明に出立したとして、何処から国を脱出し、和知の大廉の宿まで1日間の道を辿ったのかを考えると、また帰国直前に出迎えた国境の「通称いなば境」:和知の鉢伏山が良く見える、稲継の地名、稲継橋もある。は何処かを考えると興味が尽きない
たったのこんぴらさん」の伝承、峠道関係の部分抜粋
圧政に耐えかねた農民は暴政を幕府に直接訴えようと計画し、その使を屈強な若者3人が志願した。旅費を日頃修験道などで弥仙詣をして知る、他領於与岐村の庄屋吉崎五左ヱ門にもとめた。三村あげてのこの企を知った吉崎はすべてを覚悟してこれに協力した。
3人は死を決して出発、和知大簾で宿を借りたり・・・領主のさしむけた追手をうまくのがれ江戸についた。そうして幕府に訴え願はかなえられ、代官は罰せられて領民はすくわれた。
3人の帰路、藩の追及がその若者に及ぶことを恐れ、国境の通称いなば境で村役達は出迎え、ほんの心尽くしで大根,柚子、唐辛子の生切れの肴で慰労会を開き、若い3人の身の安全のため、因果を含め今後地元へ帰還することなく潜伏生活を依頼した。ついで3人の偉業を子々孫々に顕彰するため、純朴な農民はこの越訴が成功したのは、一に日頃信仰するこんぴら大権現の御加護によるものと願がけの通り千年の講を行うこととし、其の後毎年盛大な講を営むことになったという   
犬越峠」か「大越峠」か?
拙文を綾部の文化財を守る会の四方續夫事務局長に「峠マニア」として紹介したところ、
>大越峠です。ここから和知へ抜けたと武吉町の久保自治会長の書類に書いてありました・・との連絡がありました。
直訴に旅立った3勇士の出国ル−トはやはりこの峠経由だったようです
ここで「大越峠」とあり、取り敢えずキ−ワ−ド検索してみました。最初の「犬越峠」の名称は山仲間の人から教えていただいたものです。
全国峠道一覧には「大越峠」が沢山ありますが、京都府下では「大越峠」は1件も検索で出ません。
次の2点が「犬越峠」を採用していました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は一応の権威か?と思います。また山仲間では「犬越峠」が通称のようです。
京都府道481号上杉和知線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
綾部市武吉町〜京丹波町西河内間の犬越峠では府道が途絶え、通行不可能となっている また、この峠の周辺には無線中継所もある
マウンテンバイクで山を駆け抜けておられる「山であそぼっの山あそ」さんのHPです
http://yama-aso2.web.infoseek.co.jp/hachibuse.html
犬越峠にあった石仏たちから引用
綾部市武吉から船井郡和知に行く場合、由良川沿いの平地を行くよりもこの犬越峠を越える方が段違いに時間が短縮できる。それら往来の多さを証明するように峠には石仏、石塔がある。まずは峠の石仏にはめずらしく千手観音。横手の石碑には中央に『南無地蔵大士』左に施主の名前、右に『文政十三寅(1830)三月日』とある。無という漢字が見たことのないもので面白い。ちなみに文政十三年は吉田松陰の生まれた年です・・
和知町仏主峠に接続する「大栗峠」、大栗部落(和知)、大栗山(市境)があり、綾部の「忠町:たった3町の一つ」にも下りられます。これとの混同が「大越峠」では?・・。「大越峠」の出典についても確認する必要がありそうです
上林・和知、美山境の峠は南から北へ、「犬越峠」−「大栗峠」−「上林峠」−「洞峠」−「尼来峠」−「尼公峠」−「管の坂(萓待坂」)−「永谷坂峠」・・と並びます
綾部市境の峠道一覧 http://www.nbcayabe.com/sisakaiy.htm
 最初に「犬越峠」の名称を教えていただいた舞鶴市のふじもと様からメ−ルがあり、林道開設の記念公園に建つ「民有林林道みちしるべ:和知町」の大きな案内図に書かれているとお知らせをいただきました。最上部の写真を部分拡大したこの写真が証明です。「犬越峠」に決定です。

四方續夫事務局長からも連絡が来ました。
>久保 自治会長の文でてきました。往路は上記の通りで、どの峠かかいてありませんが、三人を迎えて、国堺の山道=通常いなば堺に出迎え、ほんの心尽くししで、大根、柚子、唐辛子の生切れの肴で、慰労会をひらきーーーーと記載されています。お借りしている「丹の国綾部」をお返しする時、同封して置きます
HP「綾部の文化財」「あやべの文化財日誌」の投稿について、歴史上の人名や地名など固有名詞の誤り校正が必要で、1人では思い込みなども入り不十分なので、ホ−ムペ−ジ委員会の中で投稿の相互チェックをしています。私のこのブログも上記HPの下書き校正を兼ねて作成しています