2006 綾部市民平和祈願の集い・ユキヒロ平和祈念ライブ 平和の大合唱
     平和のための綾部戦争展

綾部市民平和祈願の集い    
         
15日6時30分に孫3人をつれて寺山山頂の平和公園に登る。子供の方が足が速い   頂上の展望。北の舞鶴市境の霊峰「弥仙山」の三角ピ−クと続く「蓮ケ峰」 東方向には大地の母なる「由良川」が流れる。
氾濫するときは「由良太郎」になる
 ボ−イスカウトの子供たち ガ−ルスカウトの子供たち  
         
国旗・市旗・世界連邦旗掲揚、綾部ボ−イスカウト・綾部ガ−ルスカウトの皆さん    風がないので 四方八洲男綾部市長のお話  平和祈願祭に参加の市民   平和の鐘(音叉)を点鐘する木下芳信議長、黙祷  
四方八洲男綾部市長のお話(要旨)
綾部で始まった「中東に和平を」の交流活動。岡山市、徳島市に引き継がれ今年は亀岡市の予定だったが、緊迫する中東の戦争状況の中、ぎりぎりまでゲ−トの開くのを待っていた、パレスティナの子供達がガザから出国出来ず、対応するイスラエルの子供達もパレスティナの子供達に同情して来日を断念。来年を期することとなった。一方受け入れの亀岡市の平和集会は立派に行われ、綾部からも代表が参加した。
 小泉首相の靖国神社参拝が議論されているが、戦後の反省が日本では不十分であったのが原因だ。治安は必要だが軍備は必要ない。戦争は軍事力の無法の拡大から起こっている。世界連邦建設こそその問題解決、世界恒久平和への唯一の方法である。(文責:なべちゃん)    
         
閉会挨拶で「塔のある街」の映画化の完成と、10月14日の「平和と環境の日(世界連邦都市宣言日)」での公開を予告する、平野正明市民憲章推進協議会会長   オレンジのユニフォ−ムを着て、「平和への大合唱:生きる力−誰がために鐘は鳴る−」をPRする(社)綾部青年会議所創立50周年認承45周年記念事業の皆さん   その平和祈念LIVEの主役、沖縄出身シンガ−ソングライタ−「ユキヒロ」氏平和の鐘を点鐘   解散後も賑やかな交流風景が    
         
  寺山の平和記念祈願祭の後で配られたチラシ・・本日10時開演
社団法人 綾部青年会議所創立50周年認承45周年記念事業
ザ グレイテスト コーラス(The Greatest Chorus) 生きる力 一誰がために鐘は鳴る−共に歌おう!永遠に変わらぬ平和を願って
 綾部市は世界恒久平和を願う「世界連邦都市宣言」の日本第1号都市です。綾部市ではこれまでにも平和について考え、平和の大切さ、尊さを広く発信するために様々な取り組みがなされてきました。
 今回、社団法人綾部青年会議所創立50周年認承45周年実行委員会では、永遠に変わらぬ「平和」こそが誰もが願う幸せであり、私たちの「生きる力」の源であるという思いのもと、創立50周年認承45周年を際し、綾部市が世界恒久平和を願う「世界連邦都市宣言」日本第1号都市であることを再認識し、多くの綾部市民とともに平和の大切さ、尊さを広く全国に、そして世界に発信するとともに「世界連邦都市宣言」の意義を次世代の子ども達にも伝え、感じてもらうためにこの記念事業を開催いたします。
 「The Greatest Chorus」とは大合唱の意味で、多くの市民が一堂に会し、平和を願い大合唱をすることにより、広く平和の大切さ尊さを発信できるだけでなく、自分の周りには多くの人がいて、その繋がりの中で生きている喜びを感じ、響き渡る歌声は、人間のエネルギーをヒシヒシと感じさせてくれると思います。そして、これから大きく強く成長していってほしい子どもたちに身近に平和を感じ、幸せを感じてもらえることと確信いたします   
 ユキヒロ プロフィ−ル
 沖縄出身のシンガーソングライター
 10年間ニーニーズというユニットを組んで活動を続けていたが、2000年2月に解散。4月よりソロ活動をスタート。2000年5月に「沖縄の平和の心を世界に伝えたい」とのメッセージが込められた、ソロ初のシングルCD「HEIWAの鐘」をリリース。2000年7月に沖縄で開催された”九州・沖縄サミット”’会場でBGMとして放送され、打ち上げイベントにライブ出演し大きな反響を得る。
また、代表作品である「今日から明日へ」「HEIWAの鐘」が音楽之友社出版の“教育音楽”中学・高校版に掲載。これにより、合唱コンクールや吹奏楽部の公演などでも、多くの学校で歌われている。
沖縄で生まれ育った感性と共にやさしいメロディーと力強い歌詞で多くのファンを魅了。沖縄の海・空・太陽を感じさせる爽やかなオキナワンポップスの伸びやかな歌声が心に響きます。
数年前より学校からの依頼を数多くうけ、これまでに全国各地の学校でコンサートを開催。  オフィシャルホームページ http://www.yukihiro-okinawa.com    
         
配られた「記念うちわ」   綾部JCの皆さん   会場を後にして10時から中丹文化会館へ      
「平和の翼」 作成と披露      
         
多くの皆さんの思いが詰まった「翼」のひとつひとつが今ここに集結し、「平和の翼」となって大きくはばたきます   「平和の翼」つくりに参加した皆さんのスライド紹介
百枚ほどのスライドから抜粋して撮り、上手く写った分です。真っ黒写真をガンマ補正しています     
ユキヒロ平和祈念ライブ     披露された「平和の翼」が飛び立つステ−ジで、繰り広げられる「ユキヒロ平和祈念ライブ」の熱演に感激
沖縄出身シンガーソングライター ユキヒロ  
       プログラム
1.開 会
2.綾部市市民憲章唱和
3.「平和の翼」披露
 多くの皆さんの思いが詰まった「翼」のひとつひとつが今ここに集結し、「平和の翼」となって大きくはばたきます
4.平和への祈り
 私たちの全ての先人に感謝の意を表し、祈りを捧げます
5.ユキヒロ平和祈念ライブ
 沖縄出身シンガーソングライター ユキヒロ
 沖縄の海・空・太陽を感じさせる爽やかな歌声が、私たちの心に響きます
6. The Greatest Chorus
 大合唱「翼をください」
 今、皆の心を一つに

7.閉 会  
沖縄の海・空・太陽を感じさせる爽やかな歌声が、私たちの心に響きます    会場からの手拍子に迎えられ、「京から明日へ」「HEIWAの鐘」などの曲目が熱演された   熱演のユキヒロ  
綾部市民を前に軽快な口調で、子供達にも判りやすく語りかけされるユキヒロ   ステ−ジの照明も足下のペタル・スイッチで曲目に合わせ演出されているのかも    
 沖縄の楽器「三線」を演奏されるユキヒロ
 沖縄の米軍上陸・占領作戦の時に起こった、戦争に巻き込まれた沖縄住民の悲惨な受難の物語り、昔から音楽をもって国の平和な外交手段とし、軍隊を持たないユ−トピアだった沖縄の心。それは、遠くナポレオンの耳にまで達したという、平和国家「沖縄」のお話に感銘しました
  
   
         
沖縄出身シンガーソングライター ユキヒロ
 沖縄の海・空・太陽を感じさせる爽やかな歌声が、私たちの心に響きます  
会場の聴衆と一緒になって、手話の歌を教えるユキヒロ   手話で平和のメロデイのメッセ−ジを   力強い手話を使った絶唱のエンディング・ポ−ズ   ステ−ジに上がり合唱する綾部市民  
平和の大合唱 The Greatest Chorus    
 合唱曲「翼をください」
今 私の願いごとが かなうならば 翼が欲しい
この背中に 鳥のように 白い翼 付けてください
 この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
 悲しみの無い 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

今 富とか名誉ならば いらないけど 翼が欲しい
子供の頃 夢見たこと 今も同じ 夢見ている
 この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
 悲しみの無い 自由な空へ 翼はためかせ

この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
悲しみの無い 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい
ららららららら〜〜〜
   
 ステ−ジも会場も一緒になり合唱曲「翼をください」を合唱.。最高の感銘を与えた「ユキヒロ平和祈念ライブ」のフィナ−レ
連れて行った孫3人もステ−ジに上がり大感激だった
 「今、皆の心が一つに」なった、この平和への熱い思いを、人と人との繋がりの中に広めて行こう!と、お礼のことばを述べる為廣英隆綾部青年会議所理事長
         
平和のための綾部戦争展2006  アスパにATMを使いに行くと満車に近く、屋上駐車場にスペ−スを見つけた。2階の催しホ−ルで第18回平和のための綾部戦争展を開いていた。 「見て 感じて 考えて」「むかし・今・これからの日本」の副題がついている  
     パンフレット「京都の戦争遺跡をめぐる遺跡が語る戦争の歴史、戦争遺跡に平和を学ぶ」を求めた。
あとがき・・再び戦争遺跡をつくらせないために・・
 戦後、半世紀を経た1990年代の半ば、当会も呼びかけの一員となった「戦争遺跡保存全国ネットワーク」が結成され、全国に残存している戦争遺跡の保存を要望する運動が起こりました。
 こうした運動を背景に、95年の文化財保護法の改正により、15年戦争終結時までの戦跡が文化財指定にできることになりました。
 国による指定とともに、戦争遺跡のもっとも多い沖縄県をはじめ各県でも、自治体レベルの文化財指定の取り組みが進んでいます。
しかし、京都府下では、取り組みはまだまだ遅れています。本書の発行を機会に、私たちは京都府下の各自治体に対し、この運動を進めていきたいと決意しています。・・後略    
綾部・福知山の戦争遺跡−戦争体験を風化させないために−
小学校3年生の大雪の冬に大阪から綾部に疎開してきて、空襲警報が鳴る度に寺山の山裾の山道を家まで走って帰った。ドングリや松ぼっくりを拾いに、桑の皮むきに学校から行った。一番嫌な思い出は、耳の悪い虚弱児だったので、じっと起立していることが出来ず、「顎を引いて」という意味が全く分からず、朝礼の度にひどく叩かれたことだ。上級生は竹槍の訓練をしていた。
棒登りも、跳び箱も、鉄棒も出来ず、体育劣等生だった。その時叱られた先生に体育協会の役員仲間として出会うと、とても優しい先生だったので、あれも戦争の狂気だったのかと思う。
石原飛行場を見た記憶があり、また、だだっ広い平地を背丈よりも大きなタイヤの巨大なトラクタ−が土を起こしていて、そのあまりのパワ−に恐れ入った記憶がある。多分どちらも戦後の記憶だと思うが、キャタピラでなく巨大タイヤのトラクタ−は日本製だったのだろうか   
         
 展示パネル 戦争の悲惨な情景
子供たちの感想文が会場に張り出されており、このパネルなど戦争の悲惨さに学ぶところが大きいようだ  
たくさんのパネル展示に見入る親子づれ
日本国憲法、戦争放棄を定めた憲法第9条、教育勅語などの資料も展示され、改めて読み直してみた  
浮島丸事件
アンネのばら像、ふりそで姿の少女像、長崎原爆などの記事も詳しく展示されていた。
一画では、ビデオ映写もあり一心に視聴されている方もおられた  
少年倶楽部
護れ興亜の兵の家

「こうあ」と入れると「興亜」と漢字変換したが、さて大根を作って兵隊さんを養おうという意味だろうか??  
終戦直前の3月の綾部疎開で、食糧難は大変なものであった。さつまいも、じゃがいも、すいとん・・何時もお腹をすかしていた。祖母は大阪から持ってきた着物を持って買い出しに行ったと聞く。この2月に亡くなった母が近年痴呆症になり、もう何年も炊事をしないのに夕方になると「お米がない」と泣いた。母と妹2人と自分の子供5人を抱えて一家8人の食事に酷い苦労をしたのだと思う。父はまだ大阪の工場で働き、叔父は海軍の水兵で戦地に行っていた。   
  朝日新聞
帝国 英米に宣戦を布告
15日臨時議会を招集
対米英宣戦の大詔発布
布哇比島を決死空襲
新嘉坡を大爆撃
上海で英艦撃破、米艦降伏
我空軍ホノルル大爆撃
真珠湾で米艦船二隻撃破

景気の良い見出しが並ぶ・・しかし・・  
 平和のための綾部戦争展会場風景