初詣 宇治平等院

やっと昨夜来の寒波で降雪があり、草木に積もり銀世界になった。しかし道路の積雪は殆どなく、初詣に宇治平等院宇治上神社に出かけた。どちらも世界文化遺産、国宝に指定の文化財である。
積雪を意識して、山越えの国道173号を使わずに、由良川沿いの国道27号線で国道9号線に出て、京都縦貫高速道で京都市に出た。便乗の息子夫婦をJR円町駅で降ろす回り道で行った。カ−ナビがあると少々寄り道してもル−トを自動的に変更してナビしてくれるので便利だ。平等院の裏側の大駐車場に入れた。
 この平等院などの研修は、綾部の文化財を守る会の四方事務局長に聞くと、平成13年の事業で実施したとのこと。     
         
水に美しい姿を映す  平等院 国宝 鳳凰堂   重要文化財 養林庵書院   
裏手の大駐車場からすぐの裏門から入ると先ず 重要文化財 養林庵書院があった。
重要文化財 養林庵書院  単層入母屋造檜皮葺 慶長6(1601)年 加傳和尚が伏見城から移建したと伝えられる。   
         
 浄土院 救世船乗観音   救世船乗観音 案内  浄土院羅漢堂
 宇治市指定文化財 江戸時代寛永17(1640)  
         
浄土院羅漢堂  源三位 頼政の墓     平等院 国宝 鳳凰堂  
源三位 頼政の墓
源三位 頼政 平清盛の横暴を憤り、高倉宮以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の義兵を挙ぐ。治承四年(1180)5月26日 頼政 三井寺の僧兵と共に宇治に在り、平知盛 大軍を率いて宇治に迫る。頼政衆寡敵せず大敗す。  頼政 平等院内に於いて自刃す。時に頼政76才の老齢なり。
辞世  埋もれ木の 花さくことも なかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける  
追記:わが綾部市高倉町には、上記の治承の乱に破れ、12名の義士と共に落ちのびた高倉宮以仁王を祀る高倉神社がある
高倉神社由縁略記
治承年間、平清盛横暴を極め壇に朝権を寿し、畏くも後白河法皇を幽閉し奉りしを以て、孝心深き第二皇子高倉宮以仁王は、父君を幽閉より救い、更に皇室の隆盛を挽回せんと、源三位頼政に令旨を下し賜ふ。頼政奉じて勤王の兵をあげ、治承の難に至る。
逸道の激戦に官軍利あらず、頼政は宇治の平等院で自刃。宮は南都へ御落延の途中光明寺下で流れ矢に当たり、薨御と偽り、実は近臣大槻光頼、渡辺俊久等十二士と潜に頼政の領地丹波路に供奉し、宮をして一時の危難を避け奉りしが、宮は不幸当地に御着馬の頃から、御矢傷次第に重く、治承四年六月九日吉美郷里村で薨御し給ふ。

 翌養和元年九月九日神霊を奥谷の森合の高倉に(現在地)奉遷し、高倉天一大明神と勧請せり、 尓来御神徳は四方に輝き、世直しの神、五穀豊穣、万病平癒、殊に胃腸病の快癒に御霊験高く、腹痛救護の神と世人の崇敬を聚め給ふ。

 降って元文年間神殿挙げて回録に罹り、旧記神宝悉く鳥有に帰したが、御神像のみ火中より収めて神殿に奉安した。神殿の再建は延享三年に落成したが、建設以来星霜を閲し、再び廃頽に傾き、明治四十年再建を計画、同四十三年八月竣工、旧神殿は拝殿に改造し、新たに神殿竝びに透塀を造営、神域も拡張した。更に昭和五十三年奉紀八百年を記念し、宮の遺徳を追慕顕彰せん為、拝殿の前に神札授与所、大鳥居附近の参道石畳の新設、社務所の修復、新社務所の屋根の葺替、駐車場の新設等、広く氏子竝びに十二士後裔その他信仰者有志の多額の寄進を得て、昭和五十五年文字通り神社の面目一新、近郷稀に見る神社として整備された。
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また高倉宮以仁王を「天一さん」と崇めて行われる伝統民俗文化財の「ヒヤソ踊り」がある。
土用の丑のお祭りでは綾部で最大の祭りであり、前夜に宵宮祭が始まり、当日9時には「本殿祭」の神事が催行され、又10時には「十二士講神社祭」が催行された。平家打倒に源氏政とともに挙兵されたが宇治平等院にて、氏政やその子供やほとんどの武士が殺されが、以仁王は身代わりに自分の甲冑を着せ、この綾部の吉美の里町まで逃れてきた。それはこの吉美地区に領土をもつ武士たち12名が同行引率して来たからであり、以仁王は腹に受けた矢傷で、非常に苦しみ亡くなった。その折、今後、私は皆を腹痛から守ろう、そして「五葉の笹の葉」は五臓を意味し、それは「心・肺・肝・脾・腎」であり、笹の葉にはこの五臓を活性化する成分を含んでおり、健康飲料としてお茶代わりに飲むと良い諭旨
式内社「高倉神社と十二士講神社」天一さんの土用の丑祭り
鳳凰堂を見ながら池をわたる橋に出る。大勢の人が並んで待っている。早速、鳳凰堂の拝観を申し込むと90分待ちの12時10分からだった。
時間待ちの間に鳳凰閣ミュ−ジアムなどの拝観にまわる。    
重要文化財 観音堂 鎌倉時代
 均整のとれた姿は、鎌倉初・中期の特徴をよくあらわしている。当初は中央に須弥壇を置く程度であったと見られ、道場的空間にふさわしい簡素な建物である。 平等院    
   
 鳳凰堂拝観の時間12時10分になり、案内に従い鳳凰堂の中に入り、本尊:阿弥陀如来(国宝)と対面。ガイドさんから説明を聞く。
見学時間20分ほど
鳳凰堂の屋根に乗る右の鳳凰
実物は、ミュ−ジアム鳳翔館にガラスケ−スに入れ展示されていた
左の鳳凰   鳳凰堂の真正面の丸窓から見える阿弥陀如来(国宝)の尊顔。
修復により、金箔の剥がれた右頬の傷がなくなり、また額の宝玉が歴史考査により水晶に変えられている  
  平等院は永承7年(1052)、関白藤原頼道によって開創され、鳳凰堂はその翌年の天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立されました。庭園は浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定され、現在、鳳凰堂周辺の洲浜や平橋、小島などが整備されています。
 平等院には、大和絵風九品来光図(国宝)、梵鐘(国宝)、鳳凰1対(国宝)など平安時代の文化財'が多数残っています。
 特に11世紀の仏像群としては唯一残る、雲中供養菩薩像52躯(国宝)は、いずれも雲に乗り、様々な楽器を奏で舞うなど、伸び伸びと繊細に彫り上げられています。
 これらは3D-CGによる堂内再現映像などととともに、平等院ミュージアム「鳳凰館」で拝観することができます。
 ミュ−ジアム鳳翔館の展示を拝観。特に様々な楽器や舞い姿形の雲中供養菩薩が一面に展示された情景は素晴らしく、会場を離れるのが辛かった。
平等院雲中供養菩薩の本を買ってきた。   
 
 梵鐘(国宝)
実物は、ミュ−ジアム鳳翔館に展示   
鳳凰堂の細部  
  六角堂
ここから駐車場へ出る(南門)ル−トがあったが、見落として再度、ミュ−ジアム鳳翔館の中を通り抜ける。午前中の時は鳳凰堂を一周する路に出たはずが今回は出られず、梵鐘の脇を通ってまたここに出てしまう。仕方ないので誰1人逆行する人が見あたらない中を自分たちだけ逆行する。  
  結局間違って出たのが表参道だった。街に出ると食事どころが並んでいたが、何処も満員で敬遠し、駐車場へ向かって外側を回る。平等院構内だと表門から南門まで一直線だが、町中を回るとなると結構遠い。途中で食事場所を見つけ入る。お客はいず自分たちだけだった。