茨城県フラワ−パ−クにて
盆が開けてからも一週間滞在していた末娘親子を茨城県まで新幹線で送っていき、3日間を当地勤務の娘婿が取ってくれた「水海道第一ホテル」に宿泊した。 お盆前後と異なり、天候の崩れが心配された3日間だったが、幸いにも雨に遭わず「筑波山ハイキング」なども、近くの野田市に住む長女親子も交えて楽しめた。 帰りの新幹線の「新横浜駅」で小田原〜三島間の大雨による90分間の待機に逢い、京都駅には2時間遅れで到着した。京都駅到着前の車内テロップで、「再び新幹線運行中止」が流れていたので、辛うじて豪雨の合間に先んじて茨城県での3日間を楽しめたようである。 その翌日も新幹線は渋滞し、静岡県だけでなく茨城県など関東地方一帯で水害被害が広がったとの報道があった |
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茨城県の県花「ばら」 県花「ばら」は、県章、県旗とともに昭和41年3月28日に制定されました。県広報課によると、次のような趣旨によるものです。 県名の「いばらぎ」は、常陸風土記の「いばら」から生まれたものです。 県内に自生しているバラの種類は「ノイバラ」「テリハノイバラ」などですが、県花としては、特にその種類を指定せず、「ばら」と定められました |
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茨城県フラワ−パ−クにて | ||||||
ポンペイの遺跡とバラ 紀元79年の噴火で町全体が姿を消したポンペイの遺跡には、予想以上に多くのバラの壁画が描かれており、「神秘の別荘」や「ベェッティの家」に赤いバラが描かれてあります。 当時からバラは人々に愛される花でした。 シシリー島のペレス王は、バラを愛し、バラのクッションを使い、片手にはバラの香袋を放さなかったそうです |
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クレオパトラとアントニウス クレオパトラがアントニウスと出会い、一緒にエジプトに帰ったとき、彼女は宮殿全体をバラで飾らせ、廊下には18センチもの厚さにバラの花弁を敷きつめて、彼を迎えました。アントニウスはクレオパトラと共に熱烈なバラマニアになりました。 その後、アクティムの海戦に敗れ自殺するときに、彼は「私の墓はバラで覆ってくれ」と遺言しました |
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茨城県フラワ−パ−クにて 秋のバラ展の準備が進められていた。今咲いているバラは散りかけた花も混じっているが、まだまだ見頃だ |
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バラだけでなく、ダリアなどの花も見事であった | ||||||
茨城県フラワ−パ−クへは、筑波山ハイキングのあと女体山からロープウェイ(ゴンドラ)で下りた所の食堂で、迎えに来た末娘婿親子と昼食を食べ、筑波山スカイラインを車で走り連れて行って貰った。 非常に広くゆったりした公園で、「ふれあいの森アスレチック」、「花のすべり台」、「フラワーサイクル」「ふれあいの森散策」、「やすらぎ苑」などが設けられていた |
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丸い池がつながった周辺の花の植え込みが綺麗だった | ||||||
「楽園」は躍動感あふれる若人の姿を表したモニュメントで、科学博つくば’85に訪れた人々に憩いと安らぎを与えました。 万博会場からフラワ−パ−クに移設したものです | 茨城県フラワーパークのゲートから広いバラ園の遊歩道を登り、つくば博から移設された「楽園」像の立つ気持ちの良い草っぱらの緩斜面を歩いて「花のすべり台」にやってきた。「フラワーサイクル」などの施設もある。すべり台の利用者が数家族あり楽しんでいた。 曇り空の天候から小粒の雨が顔にあたり引き返すことにした。雨粒は小雨になることもなく下に見える温室まで辿り着いた |
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ふれあい広場登り口 | 広々とした草っぱらを温室ドームに向かって歩く | 噴水の上がる池 何故か大きな蛙(ガマ?)の置物がある | 大きな温室ドーム前フロアの寄せ植え | |||
温室ドーム内の熱帯観葉植物 | 温室ドーム内の花 | |||||
温室ドーム内の花 | ハイビスカス | |||||
ハイビスカス | ||||||