吉田瑠璃寺のしだれ桜

 吉田のしだれ桜
この桜は、樹齢300年以上と伝えられている。陽春の頃、大きく枝を広げ樹枝いっぱいに花を咲かせる姿は美しい。昔から吉田のしだれ桜と市民に親しまれ、唱和52年には「古木と若木が織りなす開花期の景観のすばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっている。吉田区には、氏神:奥山神社をはじめ、曹洞宗瑠璃寺、年取島、吉田遺跡、吉田古墳(1~7号墳)伊崎古墳(1~7号墳)、民俗芸能「吉田の振物」など多くの史蹟や文化財があり、この地区の歴史の深さを示している。
ちなみに若木の芽生えは、門前の嵯峨根堅治翁の苦心によるものである。 金剛山瑠璃寺    
 瑠璃寺
由緒
瑠璃寺は、山号を金剛山と称する曹洞宗寺院である。創建は、江戸時代中期 村全体を焼きつくしたと伝えられる大火で瑠璃寺も全焼し、同時に過去帳始め寺の由緒となる一切の書類が焼失したので、詳らかではないが、文化元年(1812)に書かれた瑠璃寺過去帳によると、「当寺間山大渓和尚和上慶長十四年(1609)」とある。
かっては、鎌倉時代の元応年間(1319~1320)にさかのぼる寺縁起があったものと考えられる。
本尊
瑠璃寺の本尊は薬師如来である。本来曹洞宗の本尊は、釈迦如来なので、薬師如来が祀られているということは、大渓和尚以前から瑠璃寺が存在していたとの証拠ではないかと考えられる。

しだれ桜の由緒について
吉田瑠璃寺のしだれ桜は、樹齢三百年以上と伝承されており、昭和五十二年(1977)には「古木と若木が織りなす開花期の景観すばらしさ」により、舞鶴市指定文化財となっているが、天正八年(1580)から慶長四年(1599)にかけて、この地に幽閉されていた京都の公卿中院通勝(なかのいんみちかつ)を慰めようと、当時の田辺城主であり、通勝の歌の師でもあった細川幽斎が、京都の吉田山の桜を移し植えて、この地を吉田と名付けたのではないかと言う。また、瑠璃寺開山の大渓和尚は、かの田辺籠城戦に細川幽斎を助けて、袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦った人物であることから、瑠璃寺と幽斎にはつよい結び付きがあったのももっともと思われる。
一方、瑠璃寺の南東に当たる吉田の入り江には、年取島とゆう周囲二百米ほどの小島がある。この島の小庵が二人の会う場所であったといわれ、幽斎は舟で城と島を行き来したとみられる。ある年の大晦日に二人は夜が更けるのも忘れて歌に興じ、ついに元旦をむかえてしまい、年取島と名付けたと伝えられている。また、その時幽斎が詠んだ『藻塩草かき集めたる跡絶へて、ただ年取の名のみのこれり』と、以前からあった地名の「トットリ」を読みこんで、「年取」の字をあて、風流を示したのではないかとも考えられる。
 このようなことから、瑠璃寺年取島中院通勝細川幽斎は一連のものと考えるのが自然のようで、その鍵を握るのが「吉田のしだれ桜」かもしれない。
※因みに、平成十五年(2003)、当寺しだれ桜の故郷とおもわれる、京都吉田山の吉田神社と縁あって、友好の関係が結ばれ、平成十六年(2004)二月、古木のしだれ桜からとった、穂木を贈り、吉田山天元宮の地に里帰りした。
4月9日(水)の朝日新聞朝刊に大きな写真入りで「老若美の競演、吉田の瑠璃寺のしだれ桜」が掲載されていた。それを見て早速、家内が友人と3人で見に行って来たという。夜に「チョットチョット」の声がかかり、プリンタ-で撮ってきた写真印刷の世話をした。
昨日は、舞鶴トレトレ-・センタ-に買い物があり、ついでに再び見に行くと云い、私の車で出かけた。センタ-前の交差点を曲がって海に向かい、海岸沿いの道を走りトンネルを抜けたところが吉田で、海岸側に村人が整理する駐車場があった。しだれ桜は少し歩いた近くにあり、桜を見る人で賑わっていた。地元の売店も開かれていた。若い2人連れにカメラを渡され、記念写真を撮ってあげたりで引き揚げた。
さらにいつも魚釣りをする白杉漁港の突堤わきを半島の先端まで車を進め、山に向かったところで槇山頂上への道を尋ねると、行き過ぎであり少し戻った所から山に登りなおした。槇山の砲台跡からの景観を楽しんだ後、再び吉田を通りがかると、他府県ナンバ-の大型観光バスが5台並び人で混雑していた。トレトレ・センタ-に向かう道でも奈良ナンバ-の大型観光バスと擦れ違い、「魚」と「桜」がセットで観光コ-スが組まれているようであった。舞鶴トレトレ・センタ-も人混みで一杯であった。  
       
 吉田瑠璃寺のしだれ桜   大樹の下に祀られた小堂    萬霊慰霊の像
         
 イカリソウが咲いていた   シロバナタンポポが沢山咲いている。海に近いから?